それは嵐の夜でした。
森の中には頼りないほどの細い道、雨と強風で荷馬車は軋み、ジョウイは途方に暮れていました。
「このままじゃ……街に帰りつくどころか僕の命が危ないな」
日は暮れて、ただでさえ暗い森は闇に包まれています。焦燥と不安で手綱を引き締めたその時、突然強い風が叩きつけ、ジョウイは咄嗟に腕で顔を庇いました。
次に目を開けると、黒々とした木々の合間に大きなお屋敷があることに気づきました。
こんなところに家などあっただろうか?ジョウイはいぶかしみながらも、嵐がしのげるかもしれないという期待に馬首を巡らせました。木々を抜けてたどり着いたそのお屋敷は大きくて立派でしたが、人気がなく陰気な空気をまとっていました。
ジョウイは馬車を屋敷の陰につなぎ、玄関でノッカーを叩いて強い風に吹き消されないよう声を張り上げました。
「どなたかいらっしゃいませんか。この嵐で難儀しています、どうか入れてください」
しかし、いくら叫んでも返事はありませんでした。
どうしたものかと、ひとまず馬車のところに戻ろうとした時、驚いたことに軋んだ音を立てて玄関の扉がひとりでに開きました。
扉の中は真っ暗闇に見えました。いくら覗き込んでも何も見えないのです。ジョウイの足は竦みました。
(これはもしかしたら、魔物の住む家なのかもしれないぞ……)
ジョウイはそう直感しましたが、どうせお屋敷に入らないのなら嵐の中で死ぬだけなのだと思い、意を決して踏み出しました。
不思議なことに、入ってみればそれほど暗いとは感じられませんでした。玄関からすぐの広間は誰もいませんでしたがきれいに掃き清められ、燭台には灯りが点っています。しかし広間から続く廊下は真っ暗に見えました。
廊下に出てみると、ここにも灯りが点っていました。あんなに暗く見えたのが不思議です。少し行った先には食堂があり、やはり灯りが点っていました。
どの部屋にも灯りがあるのに人気はなく、そしてその部屋から続く扉や廊下は、すべて真っ暗闇に見えるのです。いよいよこれは何やら魔法のかかった家に違いないと警戒しながら、ジョウイは食堂まで戻りました。
するとどうでしょう。テーブルには豪華な食事が用意されていたのです。
ジョウイは疲れ果て、お腹が空いていました。怪しくは思いながらも先程と同じように、どうせ外に出れば嵐の中。ジョウイは席につきすばらしく美味しいご飯を頂きました。
そしてジョウイは広いお屋敷の中で鍵のかかってない部屋を一つづつ確かめて回り、居心地の良さそうな客間を見つけると、そこのベッドに倒れこむようにして眠ったのでした。
もしかしたら、朝がくればお屋敷も何もかもすべて消えているかもしれないと疑っていたジョウイでしたが、翌朝目覚めてみると昨夜と同じベッドの中だったのでほっとしました。
嵐は過ぎ、窓からはさんさんと陽の光が差し込んでいます。しかし部屋の扉を開けてみると、廊下はやはり暗闇に見えました。
食堂に行ってみれば、またも美味しそうな朝ご飯が並べられています。
一体ここはどういうお屋敷なのだろう。ジョウイは好奇心をかきたてられて、立ち去る前に少し探検してみることにしました。
お屋敷は広くたくさんの部屋がありましたがどこにも人影はありません。いくつかの部屋には鍵がかかっていましたが、扉に耳を当ててみても、何の気配も感じられませんでした。奥のほうに進んで行くとテラスへ続く扉がありました。そこから射し込む温かな光に誘われて、ジョウイはテラスへ出てみました。
テラスからは庭園が一望できました。素晴らしい景色にジョウイは感嘆の声を上げました。
庭園には見事な美しい薔薇が咲き乱れています。
誘われるように庭園に下りたジョウイは薔薇を見つめながら懐かしい思いに駆られました。
(街へ帰るのなら……)
ジョウイは棘に気をつけて、一本の薔薇を丁寧に折り取りました。それを大切に携えてテラスの扉に入った、その時でした。
「よくも花を折ったな!」
突然、闇が襲ってきたように思いました。見えない床に押し倒され、喉元を押さえられました。
視界は真っ暗でした。先程までここは、窓から太陽が明るく差し込んでいたはずなのに、今や光と言えば先程くぐったばかりの庭園へと向かう扉だけ。そしてその光も、ジョウイを押さえているものの正体を明かしてはくれませんでした。部屋は魔性の闇に閉ざされていました。
「嵐で困っていると言うからもてなしてやったのに、そのお返しがこれとはね―――」
その言葉で、ジョウイはその闇が屋敷の主人であることを知りました。
物理的な力だけではない、強い威圧感。やはり魔物の住む家に迷い込んでしまったのだと恐怖が湧きあがりました。
「も……申し訳ありません。大切な人へのお土産にしたくて」
ジョウイは怒りの気配に蒼ざめ、苦しい喉を懸命に動かしました。すると押さえつける手(と思われるもの)が少し緩みました。
「大切な人……?恋人でもいるのかい」
意外な反応に驚きつつ、
「友達です。でも……僕にとっては家族のようなものです」
と答えると、闇の声はジョウイに自分のことを話すように促しました。
「僕はジョウイ・アトレイドと言います。キャロの街にある商家の息子です」
ジョウイは大きな商家の息子ではあっても、父親とは血が繋がらないためか風当たりが強いことを話しました。昨夜の荷馬車も、父親はおそらくはわざと天候の怪しいときに品物を売りに行けと命じたのでしょう。街の住人たちも父の威光を恐れてか近づいてこようとはしませんし、ジョウイはたいへん寂しい思いをしていたのです。
唯一、親友のユーナクリフとその義姉のナナミだけがジョウイを温かく迎えてくれました。ジョウイにとって彼らは実の家族以上に近しい、大切な存在でした。
ジョウイが身の上を語っている間、闇は沈黙していました。
「それで君は……友達に薔薇を持っていこうと思ったのか?」
恐ろしいことには変わりありませんでしたが、ジョウイは驚いていました。再び聞いた声は、怒りの代わりに寂しさを滲ませているように感じられたのです。
キャロにいる姉弟は嵐が近いというのに出発しなくてはならない親友をとても心配していました。街の出口で見送りながら、高価なお土産などいらないと言い、自分の安全だけを望んでくれました。そんな彼らに、ジョウイはせめてこの美しい薔薇を持って帰りたいと思ったのでした。
「……いいだろう、薔薇を持っていくことは許してあげるよ。ただし条件がある」
緩んでいた手が再び、今度は肩を押さえつけてきました。
「君を抱かせてよ」
「な―――」
ジョウイは真赤になって言葉を失いました。
「抱……ってあなたが僕を!?僕は男ですよ!」
「そんなのはどうだっていいさ。ここの薔薇は僕にとっては大事なものだ、勝手に折られるのは気に障る。だが君が承知すれば薔薇は君のものになるし、無事に街に帰ることもできる」
選びようのない選択でした。
大切な親友たちの心配そうな顔がまぶたに浮かんできます。
「…………わかりました……」
そしてとうとう、ジョウイは力なく頷いたのでした。
光のない部屋に衣擦れの音がやけに響いて聞こえました。
薄い胸を這う手の感触に、ジョウイは慄きました。何も見えない闇に包まれて……これでは目隠しされているのと同じです。
「こういうのは初めて?」
「…………」
他人にいいように身体を弄ばれるなど。
唇を噛んでジョウイは声を押し殺しました。
ただ、冷たい闇の中で、触れてくる腕が温かいのが救いだと思いました。
◆◆◆
次に気がついたとき、ジョウイは荷馬車の御者代台にいました。そこはキャロの街の中で、友人たちの家の前でした。
「ジョウイ!」
家からユーナクリフとナナミが走り出てきました。
「よかった……ひどい嵐で君は帰ってこないし、無事なのかと……」
「心配かけてごめん……」
馬車を降りた途端、二人に抱きつかれてジョウイははにかみながら抱き返しました。
こうしているとあのお屋敷でのことがまるで夢のようです。しかし嵐で傷んだ馬車はきちんと修繕され、更に驚いたことに荷車の中には金貨の詰まった袋がありました。
何より、ジョウイの手には美しい一輪の薔薇がありました。
薔薇を手渡すと、ユーナクリフとナナミはとても喜びました。
「ありがとジョウイ、すっごくキレイ!窓に飾っておくね」
「不思議な感じのする花だね……とにかく君が元気で帰ってきてくれてよかったよ」
変わらぬ温かい笑顔に、ジョウイは帰ってきて本当によかったと思いました。
父親は血の繋がらない息子が帰ってきても嬉しそうな顔一つしませんでしたが、金貨の袋を渡されると飛び上がらんばかりに驚いて、何があったのか問い詰めました。
しかしジョウイはあの不思議な出来事を語ろうとはしませんでした。魔物のことを語るのは不吉だと思いましたし、それに記憶の中の闇はなぜか寂しげに感じられて、言葉にするのが躊躇われたのです。
後日再び同じ道を通ってみても、あのお屋敷は見つかりませんでした。
日常は何事もなく過ぎていくように見えました。
しかし数ヶ月が経ったある日、父親はジョウイに結婚するように申し渡しました。相手はさる貴族の娘で、父親はその家と繋がりが出来れば自分の地位が上がり、金貨を元手に始めた新しい事業の役に立つと考えたのでした。
結婚するつもりなどないと訴えても父親は耳を貸しませんでした。ユーナクリフたちも本人の意志を無視した話に憤慨していましたが、彼らが街の有力者に何を言っても効き目はありませんでした。
「父にとって僕は、商談の道具でしかないのか……」
ジョウイは憂鬱な気分が少しでも晴れるかと、親友を訪ねました。
結婚したら、遠くの街にある相手の家に行くように父親から言われていました。そうしたらこの家にはもう来られなくなってしまうでしょう。
「ホントに結婚しちゃうの、ジョウイ」
きゅっと眉を寄せているナナミに、ジョウイは苦い笑みを返しました。
「日取りまでもう決まっているよ。一月後だってさ」
「そんなに早いの!?」
「勝手すぎるよ、ジョウイの話も全然聞かないで」
ナナミもユーナクリフも憤懣やるかたない様子です。けれどジョウイはもう、そのことに関しては何も感じませんでした。父親との間に家族の絆があることが信じられなくなっていました。
「結婚に関しては、もういいんだ……父に従うよ……」
ただ……
君たちと一緒にいられなくなるのが辛いよ。
ジョウイは寂しさを呑み込んで窓辺を見つめました。そこには、あの薔薇が飾ってありました。
薔薇はいつまでも瑞々しいまま、枯れることなく窓辺で咲き続けていました。魔法の薔薇だとすると、折り取られてあの屋敷の主が怒ったのも無理はないことなのかもしれないとジョウイは思いました。
その時でした。
ゆらり、と視界が揺れました。
「…………っ!?」
何か紋章のようなものが見えた気がしましたが、それも一瞬のこと。
周囲の存在感が希薄になり、姉弟の驚いた顔が霞み、ジョウイは闇に取り込まれました。
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