気がつくと、見覚えのあるお屋敷の一室に一人で立っていました。
ジョウイは声も出ないほど驚いていました。まさかまたここに戻ってくるなんて思ってもみませんでした。
あたりを見回すと、相変わらず部屋の中だけに光が差し込み、開け放したままの扉の向こうは暗闇でした。
その暗闇から、声が聞こえてきました。
「久しぶり。ジョウイ、と言ったかな」
突然のことにどう返してよいのか、ジョウイはしばし困惑していましたが、
「……お久しぶりです……」
とりあえずそう答えるしかありませんでした。
「一体僕はどうしてここに?……ええと」
「僕にはトリスラント・マクドールという名前がある。トリスと呼んでもらえるかな。君がここに居るのは当然僕が呼んだからだけど」
「なぜです?」
トリスラントの声はどこか楽しそうでした。
「なぜって、君がそう望んだんじゃないのかい」
「僕が……?」
「結婚が嫌だったんだろう?」
何もかもを知られているような口ぶりに、ジョウイは訝しく思いながら、恐ろしいという気持ちがよみがえってきました。
「それで……帰るにはどうしたら?」
「帰るだって!」
急にトリスラントの口調が激しくなりました。
「帰ることはできないよ。君は薔薇の魔法でここへ来たのだから」
冷たく言い放たれ、音を立てて扉が閉まりました。
慌てて扉を開け廊下に出てみましたが、既に誰の気配もありませんでした。
お屋敷の中を歩き回ってみても外へ出ることができません。門扉は固く閉ざされ、庭園さえも見えない壁で覆われているように、通り抜けることができませんでした。
そうこうしているうちに日が暮れてきました。元の部屋に戻ってきたジョウイが途方に暮れて項垂れていると、扉が遠慮がちに開きました。
「……ジョウイ、その指輪を」
トリスラントは部屋に入ってこようとはせず、闇の中から声だけが聞こえました。テーブルの上を見ると、そこには金細工の指輪がありました。
指輪には死神の鎌のような紋章が描かれています。このお屋敷に魔法で送られてくる直前に見た紋章だとジョウイは思い当たりました。
「その指輪は屋敷全体を覆っている魔法の源なんだ。欲しいものがあったら指輪に言うといい、何でも叶えてくれるから。僕の許可できる範囲でだけどね」
なぜそんな大切なものを自分などに預けるのでしょう。ジョウイがトリスラントの真意を量りかねていると、
「……怒ったのは悪かったよ」
小さな声でしおらしく言われ、ジョウイは面食らいました。
「だけど本当に君は自分で望んだはずだよ。でなけれは薔薇は君をここへ送ったりはしないはずだ」
トリスラントの声は真剣で誠実に聞こえました。ジョウイは彼を傲慢で恐ろしい魔物とは思えなくなってきました。
ジョウイが混乱を覚えていると、トリスラントは試しに、と指輪に向かって夕食を用意するように言いました。するとテーブルの上に美味しそうな料理を乗せたとりどりのお皿が現れました。
その日からジョウイはお屋敷で暮らすことになりました。
お屋敷での生活はおおむね快適でした。望むだけの食物。豪華なカバーの掛かった柔らかなベッド。美しい庭園。お屋敷には隅々まで手入れが行き届いていました。知識欲旺盛なジョウイは書斎の壁を覆い尽くす本の山に歓声を上げたものでした。
トリスラントは時折ジョウイの居る部屋を訪れて話をしました。様々な本の話、哲学の話、あるいはもっと他愛ない世間話。ジョウイはそれを楽しみ、始めトリスラントに対して抱いていた恐れは次第に薄れてゆきました。
けれど、どんなに贅沢な暮らしができても、どうしようもない寂しさに襲われるときがありました。
それは人恋しさと言っても良いでしょう。
灯りのついている部屋はごくわずか、ジョウイのいるところだけ。この屋敷の主人はその姿を見せることなくいつでも闇の中にいました。
キャロの街、自分の家には父も母も弟もいましたが、家族の絆など感じられないあの家はとても寒々としたものでした。
トリスラントはこの広いお屋敷にたったひとりでいて平気だったのでしょうか。
せめて彼が普通の人間だったら。
明かりの中で共に時間を過ごすことができたら。
寂しい時に寄り添っていることもできるのに―――ジョウイはそう思わずにいられませんでした。
そうやって数週間が過ぎました。
ある日ジョウイがお屋敷の中を歩いていると、廊下の端の開いているドアに気づきました。
普段は鍵がかかっているはずの部屋です。ジョウイは興味を引かれて部屋に入ってみました。
中は昼間なのに暗く、窓も何もありませんでした。
ジョウイは目を瞠りました。部屋の中央には燐光を放つ一枚の手鏡が浮かんでいたのです。
「これは……!?」
覗き込んで、ジョウイは息を呑みました。手鏡が映していたのは彼の顔ではありませんでした。
そこにはキャロの街の景色が映っていました。
食い入るように見つめていると、映像は動き、今度は小さな家の中を映し出しました。
ユーナクリフとナナミ。
ジョウイの大切な親友の家でした。
二人は旅支度をしていました。
『どこへ行っちゃったのかしらね、ジョウイ……』
『うん……無事だといいんだけど』
『大丈夫よ!ジョウイのことだもん、絶対大丈夫よ!絶対見つけようね!!』
『そうだね。でもナナミ、お願いだから無茶だけはしないでよ。せっかくジョウイを見つけてもナナミが倒れちゃったら元も子もないんだから』
ジョウイは手鏡の前に立ち尽くしていました。
「ユノ……ナナミ……」
僕はここにいる。
僕は無事なんだ。
だから街を出て僕を探すなんて、危険なことをしないでくれ。
けれどジョウイの声は鏡の向こう側へは届きません。
ジョウイはもどかしさに歯噛みしました。
「キャロの街へ帰してくれ……と言ってもダメなんだろうな」
指輪を見つめて溜息混じりに呟くと、
「言っただろう、君は帰れない。この屋敷から出ることはできない……僕のように」
はっと振り向いた時には、既に部屋は一面の闇に閉ざされていました。けれどジョウイはもう以前のように闇が怖いとは思いませんでした。闇がトリスラントなのではなく、彼が本当は闇の中に存在しているのだと分かったからです。
ですから今はそれよりも、彼の静かな声に含まれた苛立ちがジョウイを動揺させていました。
「どうしてそんなに帰りたいんだ。帰ったらきっと結婚させられて、遠くへ追いやられてしまうよ」
トリスラントはこの手鏡を使ってジョウイの父親のことや結婚の話を知ったのでした。
彼の言う通り、帰ればどうなるのかは分かっていました。
それでもジョウイは首を振ります。
「僕のことはどうだっていいんです。だけどユノとナナミを……彼らを悲しませておくことだけは耐えられない」
小さく叫んだとき、腕を捕まれました。
低い声が闇に響きました。
「愛しているから行かないでくれ……と言ったら?」
「…………なんだって?」
何を言われたのかジョウイが理解できないでいる間に、やわらかく温かいもので唇を塞がれました。歯列を割って口内に侵入され、それがトリスラントの唇なのだと気づきました。
暗闇の中で、ジョウイは上着がたくし上げられ、身体をまさぐられるのを感じました。強い力で押さえつけられて身動きもできません。
「嫌だ!トリス……!!」
恐怖と屈辱と、そして悲しみで。
嗚咽が漏れそうになるのを、ジョウイはただこらえることしかできませんでした。
◆◆◆
「ごめん……。帰れないなんて嘘だよ。僕にとってこの屋敷は檻だけど、君は違う。本当は……君が心から本当に望むなら、いつだって帰ることができたんだ」
意識を失ってぐったりした身体を抱き寄せ、トリスラントはジョウイの髪を梳いていました。
窓辺から差し込む陽の光のような色の髪を。
「だけど君は帰らなかった……だから僕は……君がもしかしたら……」
白い頬の涙の跡に唇を寄せても、ジョウイは目覚めません。
苦い溜息が漏れました。
「……愚かな望みをかけたものだ……」
「ジョウイ!!よかった、よかったぁ。心配したんだから!」
「今までどこにいたんだよ!無事なのかって気が気じゃなかったよ」
目覚めたとき、泣き出しそうな顔で親友とその義姉がしがみついてきて、ジョウイは息もできませんでした。
見回してみればそこは街から離れた森の中でした。
「これは一体……どうして」
お屋敷からは帰れないとトリスラントは言っていたはずなのに。
少し落ち着いてくるとユーナクリフはまだ信じられないといった顔のジョウイに笑いかけました。
「もし君が良かったらさ……キャロには帰らないで、僕たちと一緒にどこか遠い街に行こう?」
結婚を控えた息子が突如行方不明になり、父親はすごい剣幕でユーナクリフを問い詰めたのでした。それも息子の身の安全よりも自分の対面を心配している様子に、ユーナクリフは憤慨していたのです。
「僕のためにそんなことは……」
「大丈夫!皆一緒ならどこでだって生きていけるわよ」
ナナミも自信たっぷりに力こぶを作って見せます。
二人の明るさと優しさにジョウイは胸の中が温かくなるのを感じました。そしてお屋敷にひとりでいるトリスラントは、こんな温かさを知らないのではないかと寂しく思いました。無理やりに身体を開かれて、感じたのは怒りよりも悲しさでした。
ふと自分の手を見てジョウイは愕然としました。
そこにはあの指輪があったのです。お屋敷の魔法の源。これがなかったらお屋敷はどうなってしまうのでしょう。
ナナミが声を上げました。
「大変、薔薇が……!」
旅発つときにも大切に持ってきた魔法の薔薇は、今やみるみる枯れ始めていました。
ジョウイは矢も盾もたまらず、指輪に命じました。
「トリスラントのところへ!早く!」
けれど指輪が動く気配はまったくありませんでした。
代わりに、トリスラントの声が聞こえた気がしました。
『愛しているから行かないでくれ……と言ったら?』
呪われたこの身で、君が愛してくれるかもしれないなんて、大それた望みを持ってしまったよ。
君がずっと傍にいてくれたら……なんて……
「僕も愛している!」
ジョウイは叫びました。
「あなたの傍に呼んでください、トリスラント!何者だって構わない、あなたをそんな寂しいところで、ひとりで死なせるなんてことできない!!」
突然、周囲に光が溢れました。
森の下草は石畳へ、木々は街並みへと変わってゆきました。大きな美しい街の中、あのお屋敷の白い立派な壁が太陽の光に輝いていました。
お屋敷の庭園に咲き誇っていた薔薇は、ひとつひとつが人間に変わり、歓声を上げながら街へ駆け出してゆきました。ナナミが持っていた薔薇も生気を取り戻したかと思うと、背の高い青年に変わりました。
「呪いが解けたんですね!!」
頬に傷のある青年は、呆然としている少年たちを置いてお屋敷に飛び込んでゆきました。
「坊ちゃん、坊ちゃんはご無事ですか!?坊ちゃん!!」
ジョウイははっと我を取り戻し青年の後を追いました。
青年は魔法の手鏡があった部屋で、ひとりの少年を思い切り抱きしめていました。手鏡は粉々に割れていました。
「坊ちゃん、坊ちゃん!!生きていてくださったんですねぇ〜〜〜。グレミオはもう、心配で胸が潰れるかと思いましたよ!」
「ぐ、グレミオ……苦しいって……」
ジョウイが部屋に入ってくると、少年はなんとか青年を引き剥がし、はにかんだ笑顔を浮かべました。
「ジョウイ……」
「……トリス……なんですね……?」
「そうだよ、ジョウイ。ありがとう」
トリスラントは自分にかけられていた呪いのことを話しました。
昔、この街はある魔女に支配されていて、住民たちは高い税に喘ぎ恐ろしい魔法に怯えながら暮らしていたのでした。
幾人かの仲間の犠牲もありましたが、トリスラントは魔女を倒すことに成功しました。しかし魔女は死ぬ間際に街に呪いをかけました。
住民たちは薔薇に変えられ、トリスラントは闇の中で孤独に暮らすことになりました。トリスラントが死ぬまで解けることのない呪いでした。呪いはとても強いものでしたが、トリスラントの味方についていたもう一人の魔女は、その呪いの一部の形を変え、指輪に封じることに成功しました。
指輪の魔力はお屋敷を外界から隔絶し、トリスラントの命を繋ぎとめました。そして魔女は魔法の手鏡と、予言を残してゆきました。
『トリスラント、あなたが心から愛し、あなたを心から愛してくれる人が現れたなら、呪いはすべて解けるでしょう』
けれど、こんな闇に閉ざされた世界で、愛してくれる人などどこにいると言うのでしょう?トリスラントは長い時を絶望の中で生きてきたのでした。
嵐の夜、ジョウイが現れるまで。
トリスラントはジョウイがしげしげと見つめてくるので、首を傾げました。
「どうかしたのかい」
「いえ、その……あなたがこんなに若いとは思わなくて」
「…………なにか不満でも?」
憮然とした顔に、ジョウイは小さく吹き出しました。
「不満だなんて……」
軽やかな笑い声を立て、トリスラントにキスを贈ると、その途端最後の魔法の名残である指輪が砕け散りました。
「ああ〜エンゲージリングにしようと思ってたのに」
「何言ってるんですか……別にいいですよそんなもの」
「いいや。悔しいから新しいのを探すとしようか」
お屋敷の外では街中の人たちが喜びの歌を歌っています。
ユーナクリフとナナミも、わけが分からないながらも、とりあえずジョウイの幸せそうな姿を喜んでいます。
そうしてお屋敷はいつまでも幸せに包まれていたということです。
おしまい。
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