翌日は檜
(2)
2. 一体、何がどうしてこんなことになっているのだろう? トリスラントは何度目かわからない溜息をついた。 視界には薄汚れた狭い板張りの部屋。耳にはかすかな水音と人の気配。腕にはがっちりとかけられた縄。 「何なんだ、これは……」 さっぱりわからない。なにしろ目が覚めたときからこうなのだ。 その前の記憶はといえば、グレミオが部屋を訪ねてきたところで終わっている。 「この頃暑くなってきましたから、冷製スープを作ったんです」 そう言ってグレミオはマクドール家の夏の人気メニューを持ってきたのだ。もちろんトリスラントは喜んで口をつけたのだが。 「ところで坊ちゃん、ジョウイ君のことをどう思っているんですか?」 半分ほど食べ進めたところで、唐突な質問にむせ返った。 「な、なんでいきなりジョウイの話なんだよ」 するとグレミオは表情を引き締めた。 「坊ちゃん、私が何年貴方のお傍にお仕えしていると思いますか。坊ちゃんがジョウイ君とどんな関係にあるのか気づかないわけがないでしょう。それなのに坊ちゃんは待てども待てども何も言ってくれないですね。どうしてですか?」 さすがに長年のつきあいだけあって、グレミオは妙なところで鋭い。咄嗟に返す言葉を見つけられなかった。 「ジョウイ君が男の子だからですか?坊ちゃんがいいと言うなら私はそんなこと気にしませんよ」 「そうじゃないんだ。僕たちはおまえが思っているような関係じゃない」 なおも続けようとするグレミオをトリスラントは遮った。 「ジョウイは本当は僕のことが嫌いなんだよ。はじめのころ……ひどい意地悪をしてしまったものでね。でも彼は色んなものを溜め込みすぎていたから……感情の捌け口にするには僕が丁度よかったんだ」 言葉にすれば苦い思いがこみ上げる。トリスラントはそこで話を終わらせようと口を噤んだが、グレミオは食い下がった。 「それはジョウイ君の事情ですよ。坊ちゃんはどう思っているんです?嫌われているというなら、なぜ彼につきあっているんですか?」 自分でも散々考えたことだ。だが誰かから尋ねれらるとなると、答えられるだけの用意がなかった。 「坊ちゃん。坊ちゃんはジョウイ君のことが……」 「もういいだろう、終わったことなんだ」 苛立ちから思わず強い口調になる。すぐに後悔して、トリスラントは息を吐くと声を抑えた。 「ジョウイはもう僕がいなくても大丈夫だし、僕はただ……ジョウイと普通に友達になれればいい。それ以上なんて、別に……だから……」 そこまで言ったところで視界が傾いだ。全身から力が抜けてゆく。 「それ以上の関係には……なるのが怖いんですね?」 グレミオの声が妙に揺れて響く。 どういう意味だよ……。舌が動かない。 反論しようとしてとうとうできないまま、トリスラントは意識を失ったのだった。 「グレミオのやつ―――」 苦虫を噛み潰したような顔でトリスラントは唸った。それにしてもそこから状況が繋がらない。 後ろ手に縛られて痺れてしまった腕を少しでも楽にしようと身じろいだとき、部屋の扉が開いた。 「おや、お目覚めですか」 入ってきた数人の男はおよそこの部屋には似合わない姿だった。 大きな襟にフリルいっぱいの上着。華美で派手な衣装は今は亡き赤月帝国貴族のものに相違なかったが、着古されているらしく少々くたびれている。 中から一人の痩せた男が進み出て、大仰にお辞儀をした。 「お久しぶりです、マクドール家のお坊ちゃま。再びお会いできて光栄です」 「……誰だおまえ」 「覚えていらっしゃらないのも無理はないですね。貴方がグレッグミンスター城の新年パーティーにお出でになったのはほんの数回でしたから。私はマエルの領主、パリオと申します」 トリスラントは記憶を辿った。確かアンテイの近くにあった小さな町だ。帝国が無くなっては領主などいるわけもないが、今だに古い権力に固執しているのだろう。トリスラントは鼻を鳴らして壁に寄りかかった。 「で?その元地方貴族が僕に何の用だ?」 不遜な態度にパリオの細い眉が跳ね上がった。 「口の利き方には気をつけて頂きたいですね。貴方は今私たちの手の内にあるのですよ」 後ろでは彼の仲間たちが下卑た笑い声を立てている。上流社会などと言いながら、欲に溺れた貴族の笑い顔ほど低俗なものはないというのが、昔からトリスラントやテッドの共通した意見だった。 「幸運と言うべきでしょうね、アーク城の倉庫でトランの英雄ともあろう方が縛られて眠っていたのですから。手間が省けました。私たち以外にもよほど恨みを買っていると見える」 得意げなパリオを横目で見ながら、トリスラントは頭の中で符号を一致させていった。どうやらここ数日の視線の主は彼らだったらしいが、それだけでもないらしい。 「今更言われるまでもないさ。で、おまえらの目的は何なんだ?僕の命か、それとも……」 パリオは芝居がかった動作でちっちっと指を振ってみせた。 「いえいえ、まだ安いですよ。私が欲しいのはこの国です。この国を、愚民どもから正当な帝国の継承者の手に取り戻したい。私にはその力がある。秘密兵器も手に入れた。貴方はこれから私が成功するための足がかりです。今頃貴方の従者たちがレパントを呼びに行っていますよ」 そういうことか―――トリスラントは目を細め、パリオに対しては嘲笑を返した。 「来るわけないだろ。皆で造り上げた国より僕を優先するようなバカが大統領になんて選ばれるわけがない」 しかし、レパントが来ようが来まいが構わないのだとパリオは胸を逸らせた。 「ご自分の人気を知らぬわけでもないでしょう。国民はどう思いますかね?『トランの英雄』を見殺しにするような男を愚民どもがいつまでも信用していられますか?」 トリスラントも負けずに不敵な笑みを見せる。 「おまえは愚民と言うけれど、そんなに捨てたもんでもないよ」 パリオは興を削がれたらしく、笑いを引っこめると仲間たちと部屋を出て行った。だが、トリスラントの内心にはかすかな焦りが出てきていた。 トランの民をトリスラントは信頼している。しかしこの国ができてからほんの数年、未だ不安定な国であることは否めなかった。ちょっとした隙につけこんで何が起こるか知れないのだ。 グレッグミンスターからでは、レパントが到着するにもしばらく時間の余裕がある。騒ぎが大きくなる前にここを脱出しなくては。トリスラントは少しでも警戒が薄くなる夜を待って、扉を蹴り飛ばし部屋の外で船を漕いでいた見張りの男を叩き起こすと、手洗いに連れて行くよう要請した。 見張りは渋々少年を部屋から出した。地下から階段を上がり、トリスラントはなるべくこの建物の構造を知ろうと辺りを注意深く見回した。窓からは暗い水面が月の光を反射して揺らめいている。 「変な気は起こさないほうがいいぞ。この屋敷からは出られたとしても、おまえさん船は操れないだろう?」 奇妙な音が聞こえた気がして足を止めると、眠たそうに欠伸をしながら見張りは言った。どうやらここはトラン湖上の小さな島のひとつらしい。壁にはなぜか奇妙な曲がりくねった文様が彫られていた。 「さて、どうしたものか……」 部屋に戻されてから、トリスラントは再び溜息をついた。敵は意外と数もいるらしかった。ちらちらと廊下の端から女性が覗いていたりもした。帝国が滅んでから追われた貴族と、その家族や部下が逃げ込んで湖賊のようになってしまったのだろう。トリスラントをアーク城の倉庫で見つけたというのは、倉庫から食料や物品をこっそり持ち出しているためのようだ。 いざとなったら実力行使で強行突破しかなさそうだ。あまり気は進まないが。 「おまえを喜ばせるなんて癪に障るからな」 呟いた言葉に抗議するように、背中で右手が熱く疼いた気がした。 翌日の夕方になって、急に外が騒がしくなったのでトリスラントが不思議に思っていると、部屋の扉が開いてパリオが入ってきた。パリオはトリスラントには目もくれず、部屋の外に向かって一礼した。 「さあレディ、どうぞ」 招かれたその人物は、スカートの裾を翻して飛び込んできた。そのまま一直線にトリスラントに抱きつく。 「トリスラント様!!」 リボンのついた帽子からこぼれた長い金髪と、その陰に覗いた青灰の瞳。 「……ジョ……!?」 「しーっ、いいから黙っていてください」 面食らっているトリスラントの耳元に『彼女』は早口で囁いた。 「これで安心されましたかな、レディ?そろそろ日も暮れてきましたから、明日になったらアーク城にお送りしましょう。それまでは別室でお休みください」 パリオが慇懃に伸ばした腕を『彼女』は振り払った。 「いやです、私もここにいます。私の知らないところでトリスラント様がどんな目に遭っているのかと思うと……」 か細いがきっぱりとした声にパリオは鼻白んだが、気を取り直し気取った仕草で金の髪をひと房持ち上げるとうやうやしくくちづけて離した。トリスラントには、自分に寄り添っている細い身体の全身に鳥肌が立つのが分かってしまった。 「まあ良いでしょう。汚い部屋で貴女には似合わないと思うのですが……貴女がそれで良いと仰るのなら。せいぜい今夜は仲良く過ごされることです。今生の別れになるかもしれないのですからね」 パリオが出て行き足音が聞こえなくなる頃、少年の声が低く吐き捨てた。 「こんな役、もう二度とやるもんか……」 「お疲れさま。名演技だったよ、ジョウイ」 笑いをこらえているトリスラントを睨みつけながら、ジョウイは身体を離した。身体のラインを隠すゆったりとした上着とスカートがかえって清楚な雰囲気を醸し出し、まるでどこぞの令嬢のような風情だ。 「ええ、我ながら一世一代の芝居だったと思いますよ」 トリスラントは外で何があったのかをジョウイから聞くことになった。 5千万ポッチが用意できないことを伝えるために、ジョウイはこの姿で指定の場所に向かった。アーク城に住むジョウイの妹で、トリスラントの恋人という肩書きをつけて。 指定されたのはアーク城の裏側に作られた船着場だった。そこでパリオと彼の仲間数人を相手にジョウイは縋りついたのだった。 「トリスラント様は無事なのですか!?それをこの目で確かめない限りレパント大統領を呼びに行くことはできません!」 涙ながらの訴えにパリオは『彼女』を恋人に会わせることを承諾し、ここに連れてきたのだった。うまく行ったことは行ったが、船上でしきりに肩を抱かれたり詩を詠まれたりしてジョウイはひたすら怖気を感じていたらしい。 「とにかく、狙い通りに行ったので良しとしておきます……後は夜まで待ちましょう」 ジョウイは元帝国貴族の手の感触を振り払うように勢いよく帽子を脱ぎ捨てた。しかしトリスラントの視線がじっと注がれているのに気づいて居心地悪そうに訊いた。 「なんです?」 「いや、感動しているんだ。君が助けに来てくれるとはね。それにしてもその格好は?」 薄く頬を染めてジョウイが長い睫毛を伏せる。これではパリオがちょっかいを出したくなるのも仕方がないかもしれない、などとトリスラントは不埒なことを考えた。 「奴らにここまで連れてきてもらいたかったんですよ。僕らは昨日の捜索で面が割れているし、この姿の方が相手が油断するでしょう。狙いは敵の根城がどこなのか探るのがひとつ。それから、奴らに言ったとおりあなたが無事なのかどうか確かめたかったんです。ナナミにはこんな危険な役はさせたくないし、グレミオさんは年齢が合わない。ユノは破壊的な方向音痴なので……万が一尾行がうまく行かなかったときに場所を覚えていられないから、僕が」 「尾行……?どういう作戦なんだい?」 「実は協力者がいるんです。アンジーという人を知っていますよね」 「ああ、元湖賊の。彼が協力を?」 「この辺りにいるはずだって、グレミオさんが見つけてきてくれたんですよ。彼が奴らの船を尾行してきてくれているはずです。さすがあなたの本拠地だけあって人材が揃っている」 トリスラントの意外そうな顔を楽しげに見ながら、ジョウイは壁に背中を預けた。 「尾行がうまく行けば、今夜ナナミとユノが外で騒ぎを起こします。それに乗じて僕らは中から脱出しましょう」 頷いて、トリスラントはこっそりと笑った。ふんわりしたスカートを纏いながら、ジョウイの座り方がやはり男らしいのがなんとなく可笑しかったのだった。 |
まーだ続く〜。
次で終わり…です。多分。