翌日は檜
(3)



 



3.

 チャンスは夜半過ぎにやってきた。
「か、火事だ!!」
 扉の外から慌しい気配が伝わり、トリスラントとジョウイは目を見合わせて頷いた。
 スカートを脱ぎ捨て、ジョウイは太腿に巻いたベルトに仕込んであったナイフを引き抜くと、トリスラントの縄を断ち切った。
「なんだ、スカートの下は普通のズボンか……」
 トリスラントが思わず呟くと冷たい視線が返ってきた。
「くだらないこと言ってないで、さっさと行きますよ」
 どこでやり方を覚えたのか、ジョウイはナイフの細い刃を利用して器用に扉の鍵を開けた。見張りの男は慌てて火の様子を見に行ってしまったらしく、近くには誰もいない。
 二人は地下で船の櫂を見つけ、武器代わりに持っていくことにした。それから出口に向かって駆け出したが、階段を上がったところで見つかってしまった。
「大変だ!小僧が逃げたぞ!!」
 大声で呼ばわった男を殴り倒しし、廊下を駆け抜けようとするが、ばらばらと敵が出てきてなかなか進み難い。
 だがそうこうしているうちに煙が流れてくると、敵も少年たちに構っているどころではなくなってきた。廊下には男たちに混じって女性や子供が火から逃れようと逃げ惑っている。
 ジョウイは走りながら険しい表情で辺りを見回した。
「おかしい……火の回りが速すぎる気がしませんか」
「ああ……それになんだか壁が歪んでいるような……?」
 その時だった。みしみしと大きな音を立てて壁がたわんだかと思うと、文様に沿って長い亀裂が走った。
 壁から縄状に剥がれ、文様は色を変えていった。土色から紫へ、そして鮮やかな緑へ。みるみるうちに植物の蔦に変身してゆく様を、その場の誰もが呆然と見ていた。
 突然悲鳴が上がりそちらを見ると、一人の男が蔦に巻きつかれてもがいていた。他の男が剣を振るって切ってやると蔦は毒々しい赤い液を撒き散らしてのたうちまわった。開放された男は蒼白になって叫んだ。
「こいつ、俺の……俺の魔力を吸いやがった!化け物だ!」
 男の左手には水の紋章らしいものがついていたが、今や手全体が黒ずんで麻痺しているようだった。巻きつかれたところは赤く腫れ上がり、不気味さを増していた。
 建物全体が小刻みに揺れ、壁が軋み割れてゆく音がそこかしこから聞こえてくる。屋敷中の文様が蔦に変わったのだろうか。一気にパニックに陥った人の群れが出口に殺到してゆく。 
 そんな中逃げる人々に逆行し、つきとばされた女性をトリスラントが受け止めた。
「何をしている、早く逃げるんだ」
「坊やが、私の坊やがいないの!」
 弾かれたようにジョウイが踵を返す。
「ジョウイ!?」
「探してきます。あなたはその女性を連れて先に逃げてください。外でグレミオさんたちが待っている」
 止める間もなく、ジョウイは廊下を奥へと走っていった。
「ちょっ……ちょっと待てよ!ジョウイ!!……くそっ」
 トリスラントは女性を近くにいた男に預け、ジョウイの後を追った。
 角を曲がったところでトリスラントは舌打ちした。ジョウイの足が速いというのもあるが、廊下や壁を這いずっている蔦が視界を遮って彼の姿を隠してしまうのだ。
 あまり使いたくはないが仕方がない。トリスラントは蔦が絡まって瘤のようになっている一角に向けて右手を掲げた。
「ソウルイーター、主の敵を闇に送るがいい!『冥府』!!」
 黒い闇がぽっかりと口を開けて緑の塊を呑み込んだ。ぶつぶつと蔦が切れる嫌な音が響く。巻きつかれれば魔力を吸われてしまうが、魔法自体が効かないというわけではないらしい。
 蔦が一掃された部分から、男が情けない悲鳴を上げて転がり出てきた。
「ひぃっ、ベルローザ……ベルローザ、どうして言うことを聞かないんだ」
「パリオ?」
 彼はトリスラントの姿を認めると、泣き声を上げてしがみついてきた。
「助けてくれぇ……いや、助けてください!今までのことはあ、謝ります!!」
 パリオの片腕は真っ黒になり、派手な衣装はあちこち見る影もなく破れ水脹れのできた肌を晒している。
「ベルローザ、ね。とんでもないものを飼っていたもんだな。秘密兵器って言っていたのはひょっとしてこれか」
 トリスラントは顔を顰め、パリオの胸倉を掴むと思い切り殴り飛ばした。
「今のはジョウイにセクハラを働いた分。行けよ、後は正当な裁きを受けることだ」
 歯を折られたのか真っ赤に染まった顎を押さえ、パリオはすすり泣きながら出口に向かってよろめき歩いていった。トリスラントは反対の方向に足を向けた。途中で誰かが落としていったらしい剣を手に入れると、蔦を薙ぎ払いながら進んでゆく。
 煙が勢いを増していた。トリスラントが嫌な予想に唇を噛み締めたとき、ばきばきと音を立てて奥の部屋の扉が割れ、そこから少年が飛び出してきた。ナイフを振るって蔦を断ち切りながら、もう一方の腕には小さな女の子を抱えている。
「ジョウイ!」
 彼の背後から、ひときわ太い蔦が鞭のようにしなって襲いかかった。ジョウイは咄嗟に子供を抱き締めて庇ったが、間一髪のところでトリスラントが走り込んで剣を突き立てた。
「トリス!?」
「ジョウイ、良かった。無事だね」
 ジョウイは信じられないという顔で目の前に現れた少年を凝視していたが、本物だとわかるといつもの礼儀正しさも忘れて怒鳴った。
「ばっ……バカか!?あんたがこんな危険なところに来てどうするんだ!自分の立場ってものを考えろ!」
「うるさい!そんなもの考えてる場合じゃなかったんだよ!」
 トリスラントも思わず怒鳴り返した。まさか感激して抱きついてくれるとは思っていなかったが、折角助けたのにあまりと言えばあまりな反応ではないか。
 更に怒鳴り合おうとすると、ジョウイの腕の中で子供が泣き出した。二人はきまり悪そうに目を見交わした。
「とりあえずここから出よう。ケンカはそれからだ」
「そうですね……うわっ!?」
 突然、横殴りの衝撃に少年たちは弾き飛ばされた。頭上をものすごい勢いで何かが通り過ぎる。壁や柱の破片がばらばらと降ってくるのを防ぐのが精一杯だ。
 どうにか目を開けてみれば、天井がすっかりなくなって黒い空が見えていた。壁にもあちこちに穴が開いている。
 そんな中、大きな、大きすぎる花が立ち上がり炎に赤く照らし出されていた。周囲の蔦が呑み込まれるようにグロテスクな花の元に収束してゆく。
「あれが本体か……!?」
 普段は壁の文様に擬態していただろうそれは、炎に巻かれて苦悶にのたうちまわっているようだった。
 すぐ傍から強い空気の流れが巻き起こる。見れば、ジョウイの右手が輝きを放っていた。トリスラントの視線に気づき、ジョウイは口の端を上げてみせた。
「燃え尽きるのを待っているだけではどれだけの被害が出るか分からないでしょう」
「協力するよ」
 トリスラントはジョウイの頬に走った赤い傷を拭い、自分も花に向き直った。
「黒き刃の紋章よ、その力を現せ……!」
「主の声を聞け、ソウルイーター……!」
 黒い輝きが蔦を叩き伏せ、巨大な花弁を破壊してゆく。それと共に炎もちぎれて小さくなっていった。狙いはうまく行ったかのように見えたのだが。
「……!?」
 トリスラントは驚愕に目を瞠った。破壊された花から魔力が逆流してきたのだ。力を得て解放されたソウルイーターが歓喜の声を上げた。トリスラントは歯を食いしばり、呪われた紋章を押さえつけようとうずくまる。その身体から、確かな強い圧力を持って闇が溢れ出ようとしていた。
 視界の端で金の髪が揺れる。すぐそこに、極上の魂が―――
「やめろ、ソウルイーター!」
 心の隙を突いて紋章は勢いを増し、一気に宿主の抑止力を上回ろうとした。
 瞬間、闇が爆発的に膨れ上がる。
「トリス!?」
「ダメだ……来るな!逃げろ!!」
 焦燥を孕んだ声音に状況を察し、ジョウイは意を決して子供を庇うように踏み出すと、紋章の力を再び解放した。
 真の紋章が持つ凄まじい力のぶつかり合いは衝撃波を周囲に撒き散らし、少年たちを吹き飛ばした。
 どこからか懐かしい人の声を聞いた気がして、トリスラントは意識を失った。 



◆◆◆



 懐かしい人の夢を見ていた。大好きだった人たち。
 気高く強い人たちだった。誰よりも、生まれ変わって今度こそしあわせな生を迎えるべきだったのに。みんな、微笑みと想いだけを残して。
 伸ばした右手には彼らを喰らった死神の紋章。
 その先に揺れた金の髪と、青灰の瞳と。やわらかな、穏やかな微笑み。それが自分に向けられたものではないと分かってはいたけれど。
 せめてそれだけ。それだけでも、守ることはできないのだろうか?

 

 目を開けると、宿の天井と馴染みの顔があった。
「ああ、坊ちゃん!気がついたんですね!」
 ぼんやりと記憶を手繰っていたトリスラントは、はっとして飛び起きた。
「ジョウイは!?」
 グレミオは慌ててトリスラントを支え宥めるように言った。
「大丈夫、ジョウイ君は無事ですよ。彼のおかげで最小限の被害で済みました」
 ジョウイはソウルイーターの暴走による爆風に向けて黒き刃の紋章の力を叩きつけ、その上でソウルイーターそのものの力まで押さえつけたらしい。トリスラントは苦々しく呟いた。
「なんて無茶なことを……」
 黒き刃のような攻撃性の高い紋章ではそういった乱暴な方法しかなかったのだろう。だが、いくら真の紋章なら他の真の紋章の力を抑えることができるとは言っても、彼の紋章は不完全なままなのだ。一歩間違えれば大惨事になっていた。
「でもジョウイ君はわかっていてやったそうですよ。ここまでしてくれるのに、ジョウイ君が坊ちゃんを嫌っているなんてこと、ありえませんよ」
 にこにこと微笑んでいるグレミオをトリスラントはじろりと睨んだ。
「そういえばグレミオ、おまえ僕に一服盛ったな?」
 グレミオは背丈の高い身体を精一杯に縮めた。
「も、申し訳ありません、坊ちゃん……こんなことになるとは思いませんでした。どんなお叱りも覚悟しています」
 彼が白状したところによると、ナナミやユーナクリフと共謀してトリスラントを拉致し、ジョウイに探させようとしていたらしい。
 心配して探す者と、閉じ込められて不安になっている者。見つかったときにはお互いをどれだけ大切に思っているか気がつくというシナリオだ。ちなみにシナリオ担当はナナミだったらしいが。
 トリスラントは呆れて額を押さえた。
「変な物語の読みすぎだよ……本気で成功すると思ってたのか?」
「やってみるだけの価値はあると思ったんです」
 グレミオは表情を改めて主の顔を覗き込んだ。
「私はずいぶん前から心配でした。解放戦争が終わって以来、坊ちゃんは他の人と深い関係を持とうとしなくなりましたね」
 テッドのような親友を作ろうとするでもなく、オデッサのような恋の相手を探そうとするでもなく。トリスラントの反論を封じて、グレミオは続けた。
「坊ちゃん、あなたのこれからの旅がとても長いものになるだろうことはわかっています。その旅に私が最後までお供することはできないだろうということも……だからこそ……これは私の我侭かもしれません。でも、だからこそ、少なくとも私と一緒にいる間は、坊ちゃんには辛い思いや悲しい思いをさせたくない。あなたには、今という時を後悔して欲しくないんです」
 大きな両手がトリスラントの右手を包み込む。
「以前にも言いましたね、これはテッド君が坊ちゃんに託したもの。悪いものではないはずです。こんなものに負けないでください……トリスラント様」
 扉がノックされる。何も言えないでいるトリスラントの髪をそっと梳いて離れ、グレミオは扉を開けた。その向こうにいる人物を認めると破顔して場を譲る。
 入ってきたのはあちこちに包帯やら絆創膏やらを貼ったジョウイだった。
「ジョウイ、大丈夫なのかい?」
「見た目は大袈裟だけど大したことはありませんよ。これはナナミがやったんです」
 ジョウイは包帯を巻いた腕を軽く振ってみせたが、トリスラントは顔を顰めてベッドを降り、それを止めた。
「こんなになって……なんて無茶をするんだ君は」
「お互い様でしょう。先に逃げろって言ったじゃないですか」
 あの場でトリスラントを助けられなかったら、潜入までした意味がない。確かにトランの権威を守ることを優先して考えるなら、先に脱出しているべきだったのだ。
 トリスラントは苦笑が上ってくるのを止められなかった。
 立場なんて、そんなことは考えてもいられなかった。
 命に代えて子供を庇ったオデッサも、大きな犠牲を払ってナナミの命を救ったジョウイも、その時にはこんな気持ちだったのだろうか。
 だから僕はずっとジョウイが羨ましくて。自分が間違っていたとは思わないけれど、それができなかったことが悔しくて。
 トリスラントが黙ってしまうと、ジョウイはためらいがちに口を開いた。 
「あの、実は……お別れを言いに来たんです」
「なんだって?」
「本当はレナンカンプを出たときに言うつもりだったんですが、なかなか決心がつかなくて。でも、この騒動もひと段落着いたみたいだし」
 トリスラントは出て行こうとするジョウイの腕を掴んで強引に引き戻した。
「どうしてだい。理由を聞かせてくれ」
 振り払おうとする腕は、いかせまいとする強い力に押さえられている。悲しげに顔を歪め、ジョウイは目を逸らせた。
「あなたの傍に、このままいる自信がないからです」
 言わないで済むなら、
「あなたの言うように良い友達になれるなら、それでいいと思ったけれど……やっぱりだめです。友達になるには、僕はあなたにいろんな感情の拘りがありすぎる。今回のことだって、あなたにはたくさんの仲間がいて、僕はそのうちの一人でしかないって、思い知らされて……。でも、それ以上にもなれないなら……離れるしかないでしょう」
 信じられない思いで、トリスラントは呆然と訊いた。
「それ以上って……?」
 まさかとは思うが、彼が言わんとしていることは―――
「もう僕に無様なことを言わせるのはやめてください。僕はオデッサさんのように強くもないし、女ですらないし……あなたには、関係を続けるほどの興味すら持ってもらえなかったんだ」
 青灰の瞳が怒りと絶望に彩られる。それすらトリスラントには美しく思えた。
 掴んだ腕をそっと離し、奇妙に静かな気持ちで告げる。
「オデッサは強い人だったけど、同時に脆い人でもあったよ。僕はそんな彼女が好きだったし……そんな君が好きだ」
 強くあろうとして、けれどどうしても最後に優しさを捨てきれないひと。
 たとえば小さな子供が危険に晒されていれば、他のすべてを忘れて飛び込んでいってしまうような。
 ジョウイは馬鹿みたいにぽかんと口を開けた。
「……今……何て言ったんです?」
「……こんな恥ずかしいことをもう一度言わせる気かい?」
 トリスラントはジョウイの腰をひっ掴むと、力任せに横に飛んだ。二人の少年はもつれ合うようにしてベッドに倒れこんだ。
「何をするんです!?」
「二度とは言わない。だから、その代わり」
 唇を塞がれ、はじめはもがいていたジョウイの身体から力が抜けてゆく。
 吐息の合間から掠れた声が漏れた。
「信じられない……」
「本当だよ」
 トリスラントは笑って再びくちづけた。ソウルイーターを言い訳にして、僕は僕自身に負けていたんだ……これ以上深く君に関わることが怖かった。君を傷つけることと、自分が傷つくことが怖くて。
 もっと強くならなくければ、呪われた紋章なんかに負けないくらいに。それをジョウイは見せてくれた。恐ろしく力づくで無茶苦茶だったが。
 白い首筋に舌を這わせれば、ジョウイの背がかすかに震える。
「抵抗はしないのかい?」
「言ったでしょう……」
 好きなようにすればいい。
 潤んだ瞳で、見たこともないようなやさしい表情で、ジョウイは腕をトリスラントの背に回した。
「僕があなたを……ているから……」



◆◆◆



「ね、やっぱりわたしたちの計画は完璧でしょ」
「か……完璧って言うのかなぁ?」
 胸を張った最愛の義姉に、突っ込みというほどの突っ込みが入れられないユーナクリフである。
「ちょっとイレギュラーはあったけど、おおむねオッケーよ!」
「そうですよ、坊ちゃんたちが幸せならそれでいいんです」
 隣では、背の高い金髪の男がうんうんと嬉しそうに頷いている。
 ユーナクリフは力なく笑みを返した。そりゃあ自分だって、長年一緒に育ってきた親友が幸せになってくれるなら嬉しい。
 計画には問題が色々とあった気がしてならないのだが。とりあえずなかったことにしておこう。
「それでね、ユノ」
「な、なに?」
「もう一個描いてみたのよ。ね?やっぱりジョウイよりわたしのが巧いでしょ?」
「えっと……」
 これに答えないことには自分の幸せは訪れないらしい。ユーナクリフは顔を引きつらせた。
 果たしてそこに描かれたのは猫だろうか?それとも何かの果物だろうか?
 ユーナクリフは金髪の男に助けを求めたが、残念ながら彼も困ったように首を振るだけだった。



 
 

 



終わった…!
ようやく終わりましたよ………
これでこのシリーズはひとまず完結。
どうにかラブラブになってくれたようです。
しかしなんちゅう酷い文章だろう…読み返すのが恐ろしいわ。

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