―――それから2年余りの時が過ぎ。
ゼクセン地方は正式に統一され、連邦国家となった。様々な問題と課題を残しながらも、首都となったビネ・デル・ゼクセでは建国を記念してのパーティーが催された。
港に面し種々の交易品が行き交うビネ・デル・ゼクセは殊に商人たちの力の強い街だ。その財力を示すかのようにきらびやかに着飾った人々で溢れた広間、その片隅にクリスがいた。細い身体を上等の絹とレースに包まれた小さな貴婦人は、先日副騎士団長への昇進が決まったばかりのペリーズの隣に立ち、少々尻込みした様子で通り過ぎる人の流れを見ていた。
「こういう場は苦手かね、クリス?」
「……はい」
「そうか。ワイアット殿も社交界などには全然顔を出さない男だったな。いったいどこで君のお母さんと出会ったのか、皆不思議に思ったものだ」
父母の名にクリスはそっと瞳を伏せた。母は商人たちの権勢に追われ衰退してゆく貴族の娘の一人だった。父は―――父は、不思議な男だった。どこの出身なのか、どのような経緯で騎士になったのか、誰一人知らなかった。
「少し休むとしようか。おいで、クリス」
ペリーズはクリスの手を取り人ごみを抜けて庭園へ出た。美しく刈り込まれた生垣の間に四阿を見つけ、二人はそこのベンチに並んで腰掛けた。
足の届かないベンチでも、ぶらぶらさせずにきちんと膝をそろえて座る幼い少女に、ペリーズは悲しみの混じった目を向けていた。母はなく、もともとが家を空けがちだった父もまた戦場に消えた。口さがない者たちはどこにでもいるもので、屋敷の小さな女主人は否応もなく大人びてゆく。
「クリスはいくつになったのだったかな」
「7つです、ペリーズ様」
「そうか……どうするね?私について騎士見習いになるかい?」
クリスが弾かれたように顔を上げる。ペリーズは大きな手を少女の白い頬に当てた。
「私は君のお父さんから君のことをよく頼まれているし、私自身も君を実の娘のように思っているよ。君さえ良ければぜひ私が引き取りたいと思っている……だがもし君がライトフェロー家を守ろうと思うのなら、手助けをしよう」
騎士になるためには騎士を養成する学校に入学し、卒業後は数年を先輩の騎士に従騎士として付く。その後正式に叙勲されるのが多くの騎士の場合だが、騎士団の歴史の中では比較的新しい制度として見習い騎士というものがあった。
商人たちの台頭に押され、ゼクセン貴族たちの実権はあってないようなものだった。あるものは商人と婚姻を結ぶことで栄華を手に入れ、あるものは騎士となることでせめて軍事面での権力を保とうとした。残りは没落するか、貴族としては見る影もなく借金に喘ぎながら細々と生活している。
そんな中で、戦いで命を落とした騎士の継嗣が、騎士学校に入学できる年齢に達するまでの期間を、他の正騎士に付くことで仮の形で騎士の称号を受け継ぐのが騎士見習いである。ただし継嗣が女性しかいなかった場合は、名目上称号を受け継ぐことができた。
「数年のうちには貴族制も廃止される。君は賢い娘だ、私の言っていることが分かるね?」
クリスは唇を引き結んで頷いた。
小さな公国の集まりだったゼクセン連邦が統一されたことで、現在進行形で行われている改革がいくつかある。そのひとつが貴族制の廃止だった。もちろん貴族たちからは根強い反対を受けているが、彼らの不満をそらせる方策のひとつとして貴族たちを騎士に叙勲し、騎士団をゼクセン連邦の軍として起用することにされたのだった。
つまりはこれ以上、貴族の名に胡坐をかいて生活してゆくことはできないということだ。
貴族たちの基本的な財源は領地からの税収だが、貴族制が廃止されれば当然ながらそれはなくなる。地方官に任命されれば国からの俸禄はあるが、それも一部の者に限られることだし、多少の貯えがあったところで屋敷を維持するだけでも費用はかかるのだ。
ライトフェローの名と家を捨て新しい家族を得て生きるのか、騎士の称号を継いで家名を負い、血統を残すのか。ペリーズとしては前者を勧めたいのだろう。
しかしクリスにとっては―――選択を迫られること、そのものが辛かった。
「では……ペリーズ様は、父がもう帰ってはこないとお考えなのですね」
ペリーズは口を噤んで顔を伏せたが、やがて重々しい溜息をついた。
「残念だが……可能性はほとんどないだろう」
酷だとは分かっていても、同じ戦場を駆け生き延びた彼には、無責任に楽観的な言葉だけを与えることはできなかった。
膝の上で握り締められた小さな手が白くなって震えている。ペリーズは白銀の髪を優しく撫でて立ち上がった。
「私はそろそろ広間に戻らなくては。クリスはゆっくりしておいで。返事は急がないから、よく考えなさい」
遠ざかる広い背中を見据えて、クリスは唇を噛んだ。
ペリーズのことはもちろん大好きだ。申し出は大変ありがたいしとても嬉しい。だが「あなたの娘になります」とは、クリスは言うことができなかった。
何かに手ひどく裏切られたような気がして哀しさが胸を塞いだ。
「あなた、騎士になるの?」
出し抜けに背後から響いた高い声。クリスがびっくりして振り向くと、自分と同年代の栗色の髪をした少女が茂みから出てきた。
「……聞いていたの?」
「聞こえたの。あたしはかくれんぼをしてただけ。ねえ、あたしも騎士になりたい。どうやったらなれるの?」
沈んだ心で思い悩んでいたクリスには、それは随分と脳天気な問いに聞こえて、むっとしてぶっきらぼうに横を向いた。
「知らない」
「何で知らないのよ、あなた騎士になるんでしょ」
誰も騎士になるなんて言っていない―――クリスが口を開くより先に少女は勝手に話を進めていた。
「分かった。騎士って貴族がなるんでしょう。それであなたはお父様が死んだから騎士になるのね。なあんだ、剣の腕とかは関係ないんだ」
「――――」
小国家の集まりであったゼクセンの人々にとって、民族の拠り所となるのは信仰されている女神と、女神に仕える騎士たちだ。これはあまりな言い様だった。
クリスは頭に血が上って目の前の少女を突き飛ばしそうになるのをなんとかこらえ(素晴らしい自制心だと自分でも思った)尖った声を出した。
「関係なくなんかない。騎士っていうのは戦場に行くのよ、強くなくちゃ死んでしまうじゃない。それに貴族だけが騎士になるわけでもないわ」
事実、はっきりした出自など誰一人知らなかったが、父は強くて立派な騎士だったではないか。
「それからね、お父様は行方不明なの。死んでなんかいない」
つけ足すと、少女は盛大に顔をしかめた。
「行方不明?そんなの信じてるの?」
クリスは今度こそ忍耐の限界を感じ、口を閉ざして踵を返した。これ以上この少女に付き合っていたら怒りのあまり何をしてしまうかわかったものではない。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
無視されたことに腹を立てた少女がクリスの腕を捕らえる。クリスは振り向きざまにそれを振り払い、相手を睨みつけた。
「お父様は死んでない。きっと帰ってくるんだから!」
途端、少女の顔が険しくなり、小さな手が飛んできた。
頬を叩く乾いた音。
「行方不明?そんな子供だましにひっかかってるんじゃないわよ!あなたのお父様は死んだの。死体が見つからないってだけの話じゃない」
もう我慢がならなかった。かっと目の前が熱くなり、クリスは平手を返していた。小気味の良い音を立てて白い手が少女の頬を叩き返す。
「―――やったわねっ!!!」
後は泥沼だった。叩かれてはまた叩き返す。激しい応酬は一人の青年が大慌てで飛び込んでくるまで続いた。
「リ、リリィ様!なにをしているんです!?」
丸い眼鏡をかけた青年は、とばっちりで顎に少女の拳を受けながらもなんとか二人を引き剥がした。後ろにはペリーズが唖然とした様子で続いてくる。
少女たちは荒い息をつきながら睨み合っていたが、リリィと呼ばれた娘は自分を捕まえている青年の膝を蹴り飛ばし、彼が悲鳴を上げて腕を緩めた隙に走り去ってしまった。
「すっすみません!!」
青年はぺこぺこと何度も頭を下げ、痛む足を引きずりながら少女を追いかけていった。
嵐のような勢いで駆け去ってゆく後姿をクリスは険しい瞳で睨みつけていた。ペリーズは内心たいそう驚きつつも苦笑を浮かべた。
「派手にやったな、クリス」
「あ……」
その言葉にクリスは我に返り、ばつの悪い顔をした。
「あれはティント大統領のお嬢さんだよ。気の強い娘だと聞いてはいたが、我がゼクセンの姫も負けず劣らず、だな」
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声を出してクリスが俯く。普段は自分を抑えすぎるきらいのあるこの娘があれほど派手に喧嘩をするとは、よほどのことがあったに違いない。ペリーズは赤くなった彼女の頬を優しく撫でた。
「大体の用は済んだからそろそろ帰るとしようか……実を言えば私もこういった場はあまり得意ではないんだ。根っから無骨者なものでな」
だからワイアット殿と気が合ったのかもしれないが、と笑いながらペリーズはクリスの背を促した。しかし彼女は動こうとせずまっすぐにペリーズを見上げてきた。
「ペリーズ様、私は騎士になります」
思わず足を止め、少女の顔をじっと見つめる。
大きな紫の瞳には明瞭で強固な意思が煌いている。ペリーズは少し寂しそうに口の端を上げた。
「そうか」
ペリーズに手を引かれて四阿を後にしたクリスは、一度だけリリィの駆けていった方向を振り返った。
ティントではしばらく前に吸血鬼騒ぎがあり、何人もの人が消えては二度と戻ってこなかったのだということを、クリスが知るのはもう少し後になってからのことである。
(お父様は生きている。帰ってくる、必ず……)
貴族の名に未練があるわけではない、と思う。ただ、父の騎士としての名誉を、そして生まれ育ったあの家を守るにはこれが最良の方法に思えた。
父の生存を信じているのは、もうこの世に自分ひとりなのだ。
彼が帰ってきたとき、変わらぬ我が家で、変わらぬ笑顔で迎えてあげたかった。
それにたとえペリーズが引き取ってくれたとしても、彼もまた騎士である以上どうしても父の面影が重なってしまう。
もしも……彼が父のように、ある日戦場に消えてしまったとしたら―――
クリスは微かに身震いした。そんな自分を心中で叱咤し、昂然と頭を上げて繋いだ手の温もりを逃がさないように力を込める。
帰らぬ人をただ待ち続けるのは、もうたくさんだった。
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