「あなたって本当に不器用ね、クリス!」
3時間の苦労が得た評価と言えば、いつもと同じお決まりの一言だった。
上等な布地の上で好き勝手に散らばる色彩。ところどころにぽつぽつと赤茶けた染みが付いているそれは、騎士団内では密かに『血染めの刺繍布』と呼ばれているらしい。クリスは絆創膏だらけの自分の手を見て溜息をついた。
「……やっぱり私にはこういうのは向いていないのよ……」
「そうかもしれないわね。でもこれじゃ貰い手がつかないわよ、どうするの」
ゼクセン騎士の朱い上着の裾を払って、クリス以外唯一の女性騎士見習いであるポーラはソファに細い身体を投げ出した。
女性騎士の数は多くない。見習い騎士自体が少なく、正騎士に叙任されても結婚すればすぐに引退する者がほとんどだからだ。
現在女性の正騎士は一人だけ。ポーラは彼女の許で見習いをしている。クリスはペリーズの許で見習いをしながら、礼儀作法などはポーラと一緒に習っているのだった。
どうするのって言ったって。
クリスは眉根を寄せて黙り込んだ。正騎士の身辺の世話をするのは従騎士及び見習い騎士の重要な仕事なのだが、この少女はあまりにも不器用に過ぎるのだった。
「料理もダメ裁縫もダメ、おまけに破壊的な音痴だし、ダンスはまだそれなりだけど夜会にも出ないんじゃあ……」
呆れ返った声を聞き流しつつクリスはもう一度溜息をついた。
私は何のためにここにいるのだろう。
騎士団の本拠地がブラス城に移り、多くの騎士たちがここに詰めるようになった。副騎士団長となったペリーズと共にクリスもこの城に部屋を持つようになった。
家を守りたくて騎士になろうと思ったのに、月に一度帰るか帰らないか。寂しいという感情は押し殺すことに慣れていたが、このところはそれだけでなく、言い様のない焦燥感に苛まされていた。
グラスランドの民との諍いがあったの、盗賊団が出たのと言っては騎士団は忙しく動いている。ペリーズとて例外ではないのだが、彼の従者であるはずのクリスはブラス城とビネ・デル・ゼクセ以外の街を未だほとんど知らなかった。
理由は誰に訊かずとも明らかだった。クリスが女の子だからだ。
他にも一人、騎士見習いの少年がいたが、彼は正騎士に従って遠出を繰り返しており滅多に顔を合わせることもなかった。
こんなところでぐちゃぐちゃの刺繍布をいじっている間に、どこかで戦の火種が育っているかもしれないのに。もしかしたら今にも騎士たちが呼ばれて、危険な目に遭うかもしれないのに。
たとえばペリーズも出かけていって……戻らないかもしれない。父のように―――
クリスは細い肩を震わせた。
「ちょっと休憩しましょうよ。今朝お菓子を焼いたから持って来るわ。クリスもお茶くらいは普通に淹れられるでしょ」
「……そうね」
憂鬱な気分のまま部屋を出て、お湯を貰いに行こうとは思ったもののどうにもその方向に足は向かなかった。足に任せて進んで行く先には城の中庭に続く扉が待っていた。
棘のような罪悪感を胸に感じながらもこっそりと扉をくぐり身を小さくしてすぐ脇の生垣の裏に飛び込む。誰かに見咎められでもしたら、ペリーズには呆れられポーラからは文句を言われ、女騎士からは長いお小言を聞かされることになるだろう。
木立と生垣の間を、葉を揺らすのも最小限に抑えてなるべく静かに移動する。ある程度進んだところで枝の下をくぐって中庭を覗き込み、クリスは思わず「あれ?」と声を上げた。
視界にはまったく人影がなかった。いつもなら騎士たちが剣技の訓練をしているはずなのだが。
そのとき頭上にすっと影が差した。
「お嬢さん、そこでなにをしているのですか?」
クリスの驚きと言ったら、心臓が口から飛び出るかと思うくらいだった。
大声で叫びそうになるのをなんとか押さえつけ、恐る恐る目を上げると、そこには明るい茶色の髪を襟足で揃えた若い騎士が背をかがめて(重い鎧を着ているので、これは結構大変だ)興味深そうにクリスを見ていた。
「あ、あのっ……これは……」
どう答えたものやらあたふたしているうち、しげしげと中庭の闖入者を眺めていた騎士の顔がふと輝いた。
「ああ、あなたは……クリス・ライトフェロー殿ですね?」
「え……はい……そうですが、あなたは……」
戸惑いつつ頷くクリスと視線を合わせるように青年は膝を付いた。
「失礼しました、わたしはサロメ・ハラスと申します。短い間ですがあなたの父上の許で見習い騎士をしておりました」
零れ落ちんばかりに目を瞠っているクリスにサロメは手を差し出した。クリスは今だ生垣の下から首を突き出した格好でいることに気が付いて慌てて立ち上がった。
青年は先日正騎士に叙勲され、ブラス城には来たばかりなのだという。
「貴女がこちらにいらっしゃると聞いて、お会いできるのをとても楽しみにしておりました。ワイアット様は私にとって憧れの方でしたから」
「ありがとう……ございます」
サロメの瞳にちらりと沈痛な色がよぎり、クリスは目を逸らした。
この人もきっと父の生存を信じてはいない。
「それで……改めて、こんなところで何を?」
「ええと……」
咄嗟にうまい言い訳も見つからず、サロメの優しげな笑顔に釣られたこともあって、クリスは結局正直に言うことにした。
「剣の訓練を見たかったんです。でも今日は……」
「朝に召集がかけられまして。今日はここでの訓練はありませんよ」
残念そうに肩を落とす小さな少女を見て、サロメは小首を傾げた。
「訓練など見てどうなさるのです?」
クリスは言葉に詰まった。
今までクリスが訓練を覗きに行っていい顔をする大人などいなかった。おそらくは目の前の青年だって、他の騎士たちと同じように嗜めるのかもしれない。だが口を噤んでしまうには、クリスの不満は限界に達していた。
「私は……剣を習いたくて……」
サロメは意外そうな顔をしたものの、黙って聞いていた。
「昔は父が教えてくれたこともありましたけど……今は、誰も教えてくれないんだもの。私が女だから……。だから、せめて見て覚えたかったんです」
クリスが俯いてしまうと、青年騎士はしばらく口元に手を当てて考え込んでいるようだった。やがて落ち着いた静かな声がクリスの胸に切り込んできた。
「クリス殿はなんのために剣を習いたいと思うのですか?」
質問を返され、クリスはサロメを見つめた。
「剣とは戦うためのもの、人を殺す道具です。女性がそれから遠ざけられるのは、女性が生命を産み育てる者だからです。それでも貴女は剣を習いたいと?」
問いを心で何度も反芻しているのであろう、立ち尽くしたままのクリスにサロメは驚嘆の眼差しを向けていた。形の良い唇を引き結び背筋を伸ばした銀髪の少女には、歳に似合わず愛らしさよりも凛とした美しさが際立っていた。
まっすぐな瞳を揺らがせもせず、クリスはゆっくりと頷いた。
「何もできずに……後悔するのは嫌なんです」
サロメは満足げに頷き返した。
自分の道を自分で決めることには思った以上の苦痛が伴うものだ。この少女の先行きには困難が待っているだろう。だが彼女の瞳には、父親によく似た強い意志が煌いている。
この少女の運命に、やがて自分も巻き込まれるに違いない。サロメの脳裏を予感めいたものがよぎった。
「では、クリス殿。私でよければお手伝いさせて頂きましょう」
「え……?」
「そうですねぇ……やはり日中の訓練に、というのはいきなりは無理そうですし、早朝でよろしければ型くらいはお教えできると思いますが」
意外な申し出にクリスはぽかんとした。
呆れられるか、叱られるかされるのだろうと思っていたのに笑顔が返ってくるとは予想外だった。
言葉をなくしていると、サロメの顔に苦味が浮かんだ。
「やはり私程度の腕ではお眼鏡には適わないでしょうか……」
「ち、違います!あの、本当に教えて下さるのですか……!?」
「ええ、もちろんです」
固く緊張していた顔に笑みが花開く。サロメは眩しげに目を細め、立ち上がった。
「では明日の朝からでよろしいですか?」
「はい!明日の朝に!」
夢のような幸運にクリスは舞い上がった。
サロメとの約束を交わして別れ、白い頬を紅潮させて城内を歩く少女を、すれ違う騎士たちは何があったのかと振り返った。
石造りの階段を浮かれたステップで駆け上がる。
と、クリスの足がぴたりと止まった。
「…………あ」
「クリス……どこに行ってたのよ?」
さっと頬の赤みが引いたのを自覚する。
しまった、すっかり忘れていた。
そこには怒りに目の据わったポーラが仁王立ちしていたのだった。
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