初恋
(1)



 
 
 
 
 
 


 最近、クリスの様子がおかしい。
 ……とは、クリスとヒューゴ双方に親しい(?)数少ない人物のひとり、ティント大統領の娘リリィの弁である。
 彼女は暇になると、ゼクセン騎士団長の執務室だろうが炎の英雄の私室だろうが、相手の都合などおかまいなく遊びに行っては好き勝手に喋り散らかしていく。そのためヒューゴが知っているクリスのプライベートについての情報は、実はリリィに寄るところが大きかった……クリス本人が知ったら嘆くしかない事実である。
「おかしいって、なにがどうおかしいのさ?」
 ヒューゴは努めて平静を装いつつ、内心で苦味を噛み締めていた。
 おかしいのは自分の方だ。この頃はなぜだかクリスの名を聞くだけで鼓動が速くなるのだから。
 見てわかんないの?と、大袈裟に呆れられてヒューゴは憮然とした。
「見てわかるくらいに親しい相手ならわかるかもしれないけどね」
 ぶつぶつと抗議されているのを無視してリリィはどこぞの少年探偵のごとく顎に指を当てた。
「どうも最近会いに行ってもいないことが多いのよね。会えたかと思うとなんかそわそわしているし」
「そりゃ……忙しい人なんだろうから。会いたいなら時間を選ばないと」
「あのね。わたしだって考えてないわけじゃないのよ!ちゃんと一息入れていそうな時間を見計らって会いに行ってあげているのよ」
 それは相当独断と偏見に基づいた見計らい方で、例え一息入れていなくたって構いやしないのだろうに。とおそらく銀の乙女と同じ被害を受けているであろう炎の英雄は思ったが、賢明なことに口には出さなかった。
「サロメとかパーシヴァルとかに訊いても知らないって言うのよ。仕事じゃなさそうだし何やってるのかしら……」
「クリスさんなら船の厨房で見たよ」
 突然、にょっきりと嘴が挟まれた。文字通り丸くて黄色い嘴が、である。
「うわっ!驚かすなよ、レット!」
「ん?ごめんね、クリスさんのお話してたみたいだったから。探しているんじゃないの?」
 丸々とした腹を揺すってダックの少年はほのぼのとした笑顔を見せた。何を隠そう、彼は城内のあらゆる食堂、レストラン、調理場すべての常連だ。
「このごろよくあそこにいるよ。さっきもいたみたい」
「厨房?そんなところでなにやってるのよ」
 リリィが訝しげな顔をすると、ダック特有の転がるような笑い声が漏れた。
「そりゃあもちろん、お料理でしょ。でもクリスさんはいつもそのうちなって言って、食べさせてくれないんだ。料理中は厨房にも入れてくれないし、味見してみたいのになあ」
「料理!クリスが料理!?」
 さも大事件のように大袈裟に驚くリリィ。脱力するヒューゴ。
「料理くらい普通するだろ。なにがおかしいんだよ……」
「あんたね、女の自覚が9割方欠けているあの武骨豪快クイーンなクリスに料理なんて繊細なことができると思う!?」
武骨豪快クイーン…あんまりな言い草じゃないかとクリスへの同情を禁じ得ないヒューゴである。
「これは絶対なにか裏があるに決まってるわっ。ねえヒューゴ気にならない?気になるわよね!?さあ行くわよっ!!」
 なんで俺まで!?という声は当然ながら見事に無視される。リードが用事を言いつけられてティントへ向かい、サムスがこれまた言いつけられて買い物に行っている今、ヒューゴはリリィお嬢様の3番目の従僕と化していた。
(リードさん、サムスさん……早く戻ってきてくれよぉ……)
 ひとつ溜息をついて、厨房に向かい駆け出したリリィの背を追いかける。この律義さが彼女を増長させるのだと教えてくれる親切な人物は、悲しいことにここにはいなかった。
「リリィさん、あのさあ、クリスさんこないだ料理の練習してみるって言ってたよ。別に裏なんてないと思う」
「練習?なんで?」
「花嫁修行だって。ゼクセンじゃ料理は女性のたしなみなんだろ?」
「花嫁修行!!?」
 頓狂な声を上げてリリィが急ブレーキをかけた。ヒューゴは勢いのままつんのめりそうになったが、なんとか堪えた。
「ますますおかしいわよ。そんなクリスに似合わない言葉が出てくるなんて!」
 言い置いて再びダッシュをかける。
 同い年の女騎士と大統領令嬢は友達同士らしいと思っていたのだが、なにか間違った認識をしていたのだろうか。ヒューゴはぼんやりと疑問を抱きつつリリィの後を追って厨房までたどり着いた。
 異様な臭気がする。
 なんだか甘い匂いがする……ような。
 それだけではなく何かが焦げた……ような。
 ヒューゴは扉の前で逡巡したが、さすがのリリィは動じない。
「クリス、いるの?入るわよ!」
 だが、応えも待たず押し開かれた扉の向こうにさしもの大統領令嬢をも止める光景があった。
「リリィ……入るときはノックくらいしろと言わなかった?」
「……なにやってんのアンタ」
「なにって、見ての通りだけど」
 きっちりまとめあげられた銀髪、すっきりさっぱりとした平服。その上に掛けられた可愛らしいフリルのついた白いエプロン……のはずが、白くなかった。
 黄色や赤や茶色や白っぽいナニかがべったりついている。見ればエプロンだけではなくテーブルや床のそこかしこに同じ色が散乱していた。
「本当に料理していたとはね……どういう風の吹き回しなの、あんたみたいなぶきっちょが急に料理なんて」
「ああ、ヒューゴがな、私のような女にもそのうち求婚してくれる奇特な男が現れるだろうって言うから。それまでに料理くらい覚えておこうと思って」
「……ヒューゴぉ?」
 呻くリリィの後ろで身を縮めながらも恐る恐る顔を覗かせた少年に目を留め、クリスは驚いたようだった。
「あなたも来たのか」
「う、うん……クリスさん、あの、ちょっと訊いていいかな」
「なんだ」
「なにを作っていたの?」
 沈黙が降りる。強張った表情の中で菫色の瞳が無言のうちに「見て分からないのか」と問いかけるが、料理をしていることだけは分かってもなにを作っているのかまでは、戸口の二人からは「わからない」という悲しい返答があるのみだった。
「……パンケーキだ」
 パンケーキ。それは料理をしたことがあるゼクセンの人間なら大抵誰でも作れるものである。
 ゼクセンの子供(特に女の子)が料理を習い始めるとき、まず始めに覚えるのが目玉焼き。次にパンケーキというのが一般的なのだ。自分がいつごろパンケーキを作れるようになったのか覚えてすらいない女性も多いくらいである。
 要するに、初歩中の初歩。
 テーブルの端、比較的飛び散ったものの被害を受けていない一角に、クリスの調理によってできたと思しきモノが平たく円い皿に乗っていた。ヒューゴとリリィがそれを注視していることに気づいたのか、クリスはススス……と横滑りに移動して皿を彼らの視界から隠した。
「私はこういうものは苦手なんだと言ったじゃないか。とりあえず練習してこれでも少しまともになった方なのだが……あまり見て楽しいものではないだろう?」
 だからなるべく他の者には知られないようにしていたのに。
 クリスは拗ねた子供のように薄紅の唇を尖らせた。男なら思わずどきりとしてしまうような表情だったが、幸か不幸かヒューゴの頭はそれどころではない焦りに支配されていた。
 俺……確か試食するって約束……したよ、な?
 不味そうである。
 チラッと見ただけでも、見るからに不味そうである。
 しかしそれを果たして素直に言うことなどできるだろうか。いや、そもそもアレを口に運ぶ勇気が自分にあるだろうか。
 ヒューゴは今更ながらに軽率な約束を悔やんだ。
 そんな少年の動揺をそっちのけにして、ティントのお嬢様はなぜかクリスに詰め寄っていた。
「クリス、あなた確か卵を割れるようになるのに1週間かかったって言ってなかった?」
「……言った」
 彼女がまだ故ペリーズ卿の下で騎士見習いを務めていた頃の話である。ペリーズ前副騎士団長は以後、二度とクリスに料理をしろとは言わなかったという。
「目玉焼きはどれくらいで作れるようになったの」
「作ったことがないから知らん」
 妙な気迫に圧されてクリスはじりじりと後ずさった。
「じゃあコレはどれくらい前から練習しているの」
「……ええと、かれこれ1週間くらい」
 リリィは両手を広げて盛大な溜息を吐いた。 
「やめときなさいよ、この分じゃいつまで経ったってまともなものなんか作れやしないわ。材料だって勿体無いじゃない!」
「別に無駄にしているわけじゃ―――!」
 言いかけてクリスは口を噤んだ。
 怪訝に思ったリリィが俯いた顔を覗き込もうとすると、拒むように、反対にキッと顎を上げ、クリスは大きく腕を振って突然の侵入者たちを追い立てた。
「ひ、人がせっかくやる気になっているのに、水を注すようなことを言うな!ほらもう、二人とも出る!これから片付けるんだからっ」
 いつにない剣幕で厨房から放り出され、ヒューゴはぽかんとして目前で勢いよく閉じられる扉を見ていた。
 とりあえず、試食はしなくてすんだのだろうか?
「なーんかおかしいわ……クリスってば、まだなにか隠していることがあるわね」
 リリィは納得のいかない顔で腕組している。クリスだって忙しい合間を縫って頑張っているのだからそっとしておいてやればいいのに、とヒューゴは呆れた。
「なんでそんなにこだわるんだよ。クリスさんが料理しているとまずいことでもあるの?」
 リリィは苦々しく呟いた。
「……ないことも、ないわね」
「ええ?」
「クリスが料理できるようになったら、またお父様や大臣がうるさくなるわ」
 歳の近いゼクセン近隣諸国のお嬢様たちはお互いに何かと比較されているのだ。
 ビネ・デル・ゼクセのクリス・ライトフェローと言えば、その破天荒な生き方故に人気は高くとも手本にされることは珍しいようだが……
「絶対『クリスでさえ花嫁修行をはじめたのにおまえは……』って言われるのよ。あーもーうざったいったら!」
 双方ともに嬉しくなさそうな比較に使われることになるのかもしれない。リリィは栗色の髪を振り乱してリアルな想像を振り払った。
「ってことはリリィさんも……料理、できないんだね……」
「なに寝ぼけたこと言ってんの」
 天下の大統領令嬢はフッと鼻で笑って胸を張り、髪をかき上げた。
「料理なんてのはね、リードにやらせておくものよ」
「……」
 聞かなかったことにして、ヒューゴは思わず遠くを見つめた。
「女の人って……大変なんだな」


 
 
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