ゼクセンの文化では、女性の行動はカラヤよりずっと制限されている。それがだんだんと理解できてくるうち、ヒューゴはクリスがそれをどう思っているのだろうかと気になった。窮屈ではないのだろうか。
閉じたままの扉に流れかけたヒューゴの視線を、遠慮のないお嬢様の声が引き戻した。はっとしたヒューゴは微かに唇を噛む。
―――俺は何を気にしているんだ。どうして気になるのだろう、こんなこと。
「だから、絶対裏を突き止めてやるのよ。分かったわね、ヒューゴ!」
「え……いや、それってまた別の問題じゃ」
「ここにいても埒が明かないわ。ルイスあたりなにか知ってるんじゃない?行くわよ!」
問答無用である。
「あの……俺、そろそろシーザーのところに行かないと……」
いちおう訴えてはみたものの、暴走するお嬢様の耳にはやはり届いていないようだった。しかたなしに再度駆け出したリリィの背を追う律儀な少年であった。
二人が並んだところで、ふと廊下の角から現れた人物がいた。
「あ……ゲドさん」
背の高い黒髪の男がこちらに向かってくる。その足元にはぶらぶらと猫が歩いていた。
ヒューゴはなんとなくこの男に好感を抱いていた。口数は少ないが強くて、何者にも屈しないようで存外に義理堅くて、少し陰のある。落ち着いた大人の男、といった雰囲気に憧れのような思いがあるのだ。
すれ違いざまに会釈を送ると、相手は歩調を変えることなく軽く片手を上げて返してきた。
双方はそのまま一定の速さで間隔を広げていったが、突然二人の方がぴたりと足を止めた。そして二人が同時に振り返る。
この先にあるのは―――厨房だけだ。
ゲドは迷いもなく慣れた動作でノックし、扉を開いた。
「入るぞ」
ぱたんと扉の閉まる音。ヒューゴとリリィは顔を見合わせると、無言のうちに音を立てないよう小走りで駆け戻った。
リリィは扉に耳を押し付けて中の様子を伺った。盗み聞きをする罪悪感がなかったわけではないけれど。ヒューゴはなぜかそれを止めようという気にはならず、むしろ自分自身も彼女の聞いている内容にものすごく興味をそそられて、不自然な体勢になりつつも耳を押し付けた。
中の音は、よく聞こえなかった。話し声が小さいのか、あるいは会話自体がほとんどないのかもしれない。
耳を外そうとした瞬間に聞こえた微かな声。
『あ、あの……ゲド殿』
緊張を孕み、少しうわずった声に我が耳を疑う。こんな話し方を彼女がするなんて知らない。
『今日はイチゴのジャムを入れてみたのですが……』
『……ああ』
まさか―――?
そうっと扉を押して、ほんの数ミリだけの隙間をヒューゴはほとんど無意識に作っていた。
その隙間に白い横顔が見える。
あれは、だれ、だろう?
殴られたかのようなショックを受けた。
きつい目許は朱に染まり、伏せられた睫毛の先が切なげに震える。白く晒された指は落ち着かなくエプロンの端をいじっていた。
銀の髪と紫の瞳―――だけど、あんな女は知らない。
熱っぽく潤んだ光を瞳に宿しながら、嬉しそうに、少しはにかんで笑う女。初々しい少女のようなその仕草。
息もつけずに彼女を凝視していたヒューゴは、横でリリィが慌てて脇を小突いたのさえきづかなかった。
突然バランスが崩れてがくん、と前に倒れ込んでしまう。中から扉が引き開けられたのだ。
隻眼に見下ろされヒューゴたちは言葉もなかったが、ゲドは咎めるでもなく彼らを一瞥しただけだった。ほんの少し眉を上げ、何事もなかったかのように振り返る。
「ではな」
短く言い置いて、足元に猫をまとわりつかせながら元来た道を戻ってゆく。
ほっとすると同時に、ヒューゴの胸の辺りにもやもやしたものが浮かんでくる。
「あなたたちは……まだいたのか……!?」
奥から驚きと非難の籠もった声が飛んできた。
盗み聞きしていた事実があるだけに、ヒューゴも通常ならば身を竦めていただろう。しかし湧き上がる苛立ちが謝罪の言葉をかき消してしまった。
リリィはリリィで悪びれもせずクリスにくってかかる。
「ちょっと、どういうことなのよこれは!なんでゲドがここに来て、こんなヤバそーなモノ食べているわけ!?味覚ないんじゃないのあの男」
「失礼なことを言うな。ゲド殿は私の練習につきあってくださっているんだ」
むっとしてクリスがゲドの弁護に回る。ヒューゴは我知らず奥歯を強く噛み締めていた。
「……クリスさん」
食いしばった歯の間から漏れるような呼びかけは、自分でも驚くほど刺々しかった。
「俺に試食させてくれるって言わなかった?なんで俺には隠しておいて、ゲドさんにしてもらってるの?」
理不尽な怒りだということはヒューゴ自身も分かってはいたが、責め立てるような問い方になってしまった。自然、クリスの答えも言い訳めいて早口になってしまう。
「だ、だから……うまくいったらって言っただろう。今までのパンケーキが失敗作だってことくらいはよく分かっているんだ。私だってはじめは止めたのだが、ゲド殿は是非にと……」
そもそも、ゲドは以前から猫にエサをやろうとたまにこの厨房に出入りしていたのだが、そこへ料理を練習するためやってきたクリスと鉢合わせたのだった。
「私が不器用だから心配して下さっているんだ。色々と相談にも乗って頂いたし。あの方は父……の親友でもあったから、気にかけて下さっているのだろう」
クリスが説明しているのをじっと見つめて珍しく静かに聞いていたリリィだったが、ふと彼女の袖口を引き、探るように声を落とした。
「まさかとは思うんだけど……まさかクリス、あの人のこと……」
途端、クリスの白い頬が真っ赤に染まった。
信じられない光景を見ている。ヒューゴは再度殴られたような気がして、頭がぐらぐらした。
「嘘でしょー!?あんたおかしいわよ。超ド級の鈍感のくせして、好きになったら相手はオヤジなの!?」
「いいかげんにして、リリィ!失礼すぎるぞ!」
クリスは眉を吊り上げて怒った。
「ゲド殿は立派な方だし、私が誰を好きになろうが私の勝手だ!」
叫んでから、はっとして口を押さえる。これでは彼を好きだと公言しているようなものだ。
何事か言いかけたリリィを遮って、大きく響いた鋭い音。ヒューゴが拳を叩きつけるような激しさで扉を全開にしたのだ。
苛立ちは頂点に達していて、これ以上聞いているのは耐えられそうもなかった。
「俺……シーザーのところに行かなきゃいけないから」
やっとのことでそれだけ告げて、逃げるように厨房を飛び出した。後ろでクリスのものかリリィのものか、女の声がしたが、構ってもいられなかった。
息が切れるまで走って、城の外まで走り抜けて、苦しくなって足を止めた。
二人には不自然に思われてしまっただろうが、あの場にいてはいけないと身の内から激しく警鐘が鳴っていたのだった。
これ以上知ってはいけないんだ。
荒い呼吸を繰り返しながら、城の壁にもたれてヒューゴは自身に言い聞かせた。
苛々する。だけどその理由なんて考えてはいけない。
これ以上あの女に近づいてはいけない。これ以上知ったら後戻りできなくなる。
そこまで考えて目を瞠った。
後戻り。何から?
突然、ごつっと後頭部に衝撃が走った。
「……いってぇっ!!」
悲鳴を上げて振り返る。今度は本当に殴られたのだった。
「おい、俺との約束をすっぽかそうとはいい度胸だなコラ」
腕を組んで仁王立ちしているのは、赤毛の少年軍師だ。
ヒューゴはズキズキ痛む頭を押さえ文句のひとつも言ってやろうとしたが、厨房を出る口実に使っただけで約束を忘れかけていたのは事実だったので、ぼそぼそと謝罪を呟いた。
苛立ちをうまく消化しきれず、何の罪もないシーザーにまで悪態をつきたくなってくる。
「……どうした?」
年若い炎の英雄の様子がおかしいので、シーザーは屈んでヒューゴの顔を覗き込み、眉を顰めた。
「なんだその顔。目の前を葬式がいっぺんに3つも通り過ぎたような顔しているぜ」
ヒューゴは睨むようにどんよりと昏い瞳を上げた。
「俺は……クリスさんなんか嫌いだ」
「あ?」
「あの人は、俺が思っているよりずっと女なんだ」
なにを今更、とシーザーは呆れかけたが、考えてみればクリスを普通の女性として扱うことができる男は……あまりいなかった。『白き英雄』と呼んで武勇を称えるか、『銀の乙女』と呼んで聖女のように遠巻きに憧れるのが一般的である。そんな彼女にアタックする少数の果敢な男たちはといえば、大抵彼女の類稀なる鈍感さによって攻撃を無効にされていたのであった。
「ゲドさんも嫌いだ。なんかさっきからすっごくムカつく。別にそれはあの人のせいじゃないって分かってるけど。わかっているけどっ」
ついさっきまでは好感を抱いていた相手なのに、今は疎ましく思える。
ヒューゴは力いっぱい拳を握り締めていた。悔しくて仕方がなかった。
「でもいちばん嫌いなのは俺自身だ」
「……そりゃまた。三頭揃い踏みとは豪勢なことで」
またしても後頭部をはたかれた。
「だから?嫌いだから一緒には戦えないなんて言わないよな」
「言わないよ!」
2回も殴られるのは理不尽だろうと、ヒューゴはシーザーを睨んだが、彼は言い含めるように年下の炎の英雄に指をつきつけた。
「ならいい。気持ちを切り替えろよ、戦は待ってはくれないんだ。近いうちに動きがあるかもしれないのに、そんなザマじゃ死人が増えるぞ」
年若い軍師が時折見せる真剣な表情に圧され、言葉に詰まる。
「好きだ嫌いだと余裕のあること言ってられるのは慣れている奴らだけなんだよ。クリスもゲドもこれ以上ない貴重な戦力だ。おまえにできることはただ仲間を信頼することだけさ」
ヒューゴは頷く以外なかった。戦いの現実に身が引き締まる。
「分かったんなら行くぞ。アップルさんも待っているんだからな」
「ああ……」
そうだ……俺は炎の英雄として戦うことに決めたんだから。男も女も関係なく、大事な仲間なんだ。
シーザーの後について歩きながら、ヒューゴは喉にわだかまるものを飲み下した。
このもやもやしたものの正体を知らなければ、こんなに苦くもなかったのに。
あの人は友の仇で、村を焼き払った人で、恐ろしく強くて、美人で、そのくせ鈍感で、パンケーキも作れないくらい不器用で、好きな男がいて……
知らなければ良かったんだ、そんなこと。
「……好きなんだ」
今は仲間だけど、敵でもある、ルルを殺したあの女が好きだ。
悔しい。こんなに悔しいことなんてそうないと思う。
ヒューゴは苦い喉を鳴らした。もやもやしたものはなかなか消えない。
クリスさんのパンケーキは、きっとこういう味がするんだろうな。
初めに見た時は本当に食べ物なのかと思ったが、こうなってしまうとあんなものでも食べてみたいと思うのだから重症だ。
だけどこんな気持ちはシーザーの言うとおり、戦には不要のものなのだろう。
「俺はクリスさんのことなんか嫌いなんだから。あの人はただの仲間だよ。ただの仲間なんだ……」
ヒューゴはシーザーとの打ち合わせに入るまで、何度も何度も自分に言い聞かせた。
なかったことにしてしまえば気は楽だ。
ばかみたいだとは思ったが、そうでもないと紫の瞳がちらついて苦しかった。
……胸の底は余計に痛くて苦かったのだけれど。
シーザーの目がこちらに向いていないのをいいことに、ヒューゴは滲んだ視界をごしごし擦った。
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