空も大地も真っ赤に染まっていた。
風は濃い鉄の匂いをはらんで熱を帯びていた。
見渡す限りに屍が折り重なり、誰ひとり動くものもない血にまみれた世界。
惑いと恐れ、罪悪感と嫌悪が心臓を叩き、一方で醒めた理性が告げる。
いつもの夢だ―――と。
「このリンゴ、ひとつナナミに持っていこうか」
机の上にふたつ並んだリンゴを前にして、ユーナクリフがふと思い立ったように言った。
ジョウイはつい笑みを浮かべた。
「そうだね」
「……なに笑ってんの?」
「別に。いい考えだと思っただけ」
女の子を口説くのが男の義務だとかなんとか言ってはいても、結局のところユーナクリフがいちばんに大切にしている女の子はナナミなのだ。
そろそろ宿の食堂には人が増えてくる頃だった。ユーナクリフがナナミに、リンゴを渡すついでに夕食をどうするのかと聞きにいったが「食欲なぁい……」という応えが返ってきた。しかたなく二人で食事をとったが、普段有り余るほどの元気を振りまいているナナミだけに、ジョウイは気になってしまって落ち着かなかった。
「ナナミ……大丈夫なのかな?」
一階が食堂になっている宿屋の階段を上りながら呟くと、先を歩いていたユーナクリフがちらりと振り返った。
「そんなに心配しなくても大丈夫だと思うよ。前もそうだったし、二日目には楽になるんだって。普段は僕も気づかないくらいなんだけどな。今回は多分、久しぶりに長いこと旅してたし疲れてるんだよ―――って本人も言ってた」
「え……?」
「あ、そうか。ジョウイは知らなかったんだ……うーん……」
何を話題にされているのか分かりかねて訊き返したジョウイにはっとして、ユーナクリフは言いにくそうに逡巡し、それから声をひそめた。
「でも、これからも同じようなことあるかもしれないし知っておいた方がいいよね。……つまりさ、そのう…………ナナミも女の子だってこと。分かるだろ?」
数瞬の後に意味を理解してジョウイは絶句した。
「いつ頃だったか忘れたけど初めてのとき、なんかすごくショックだったらしくてさ。ナナミ、三日くらいヒルダさんのところに篭ってたんだよ。皆はおめでとうって言ってくれたんだけどね」
女の子ってそういうものなのかなぁ、とユーナクリフは苦笑しながら話していたが、ジョウイが立ち尽くしているのに気づいて首を傾げた。
「ジョウイ?」
「あ……うん……そうか、ナナミが……」
もう目の前には三人で取った並びの部屋が見えているのに、どこか上の空の返事だけでジョウイの足は止まったままだ。
「ジョウイ……ナナミの様子見に行くんじゃなかったの?」
「ごめん、ナナミのところには君が行ってくれ」
知らず固い声が出て自分で驚いた。
「……なんだか頭が痛いんだ。今日は、僕はもう休むよ」
突然のことに唖然としたユーナクリフに背を向け、ジョウイは自分達の部屋に入るとすぐに扉を閉めた。もしユーナクリフが心配して追いかけてきてもまともに応対できる自信がなかった。
扉の向こうからはやはり追いかけて来ようとした足音が聞こえたが、扉の前で少しの間止まり、やがて気配が遠ざかった。ナナミの部屋に行ったのだろう。
背後の扉にもたれかかり、ジョウイは息を吐いた。
なぜ自分はこんなに驚いているのだろう。
当然じゃないか?ナナミの身体が健やかに成長している証拠だ。どちらかといえば遅い方だろう。喜ぶべきことのはずだ。
それなのになぜこんなにも恐ろしい予感がする?
ある日、女性の身体に起こる変化。
もちろん知識として理解してはいた。当然のこととしてわかっていた。それなのに。
今までにジルやヒルダや、周囲にいる女性は当然のように「女」だと思っていた。ナナミが女であることももちろん分かっていた。わかっていたつもりだったのだ。
けれどナナミは。
出会ったのは、男だとか女だとか、まだ明確な区別がされ切っていない頃で。時が経つにつれて背丈が伸び、ある時期を境に自分やユーナクリフの声が低くなり、ナナミの身体つきがしなやかに丸みを帯びて。それから―――
……それから?
ジョウイは目を瞠った。
そこで何かの糸がぷつりと切れていた。
思い出すのはミューズ市長の執政室。驚愕と困惑に彩られた幼馴染達の顔。
まとわりつくアナベルの長い髪と熱い血とやわらかな肌―――
―――こうも決定的に突きつけられる事実があったなんて。
◆◆◆
赤に染まった死体ばかりの世界で、遠くからおぉぉん……と虚ろな声が響いてくる。
それは次第に足元からも湧き上がりすべてを埋め尽くしてゆく。
空には貪欲な剣の群れ。ちりちりと焦げるような右手の痛み。
生きる者のない世界にたくさんの腕が伸びてくる。死者たちの腕、血まみれの腕が。
いつも見る夢だった。
戦争が終ってから、終る前からも。戦場を駆け抜ける合間を縫って襲い来る悪夢だった。
どんなに振り払っても捕らえようと追ってくる無数の腕。
ルカ・ブライトの、ジョアンナやマークスの、アナベル、シード、クルガン……名も知らぬたくさんの兵士たちの。
掴まれる度にべとりと肌につく粘ついた血液。
狂うような赤から逃れたくて、もがいた。何度も見た夢の終わりがすぐそこまできていることも知っていた。
けれど、血溜まりが広がるその中に。
ナナミとユーナクリフがいた。
全身を血に染めて。紅く紅く。
どこかで甘い香りがした。
「…………ッ!!」
声にならない叫びをあげてジョウイは跳ね起きた。
見開いた目には夜明け前の暗い部屋が映り、重苦しい雨の音に囲まれていることを知る。錯覚だと分かってはいても、ぬるぬるとした血の感触を拭いたくて何度もシーツに手をこすりつけた。
「ジョウイ?」
ぎくりとしてジョウイが身体を固くすると、隣のベッドで半身を起こす気配がした。
「…………ユノ」
掠れた声と喉で詰まった空気を無理やり押し出し、ようやく呼吸ができるようになる。
「ジョウイ、大丈夫……?うなされてたけど」
「…………」
唇が震えるだけで、大丈夫とも、起こしてすまないとも言葉が出てこない。もう一度眠るには目の前の闇は深く、自分の顔に触れてみればひやりとした汗の感触以外は感じられなかった。
その様子に眉をひそめ、ユーナクリフは暗がりに目を凝らしてベッドから降りると机の上の蝋燭に火を灯した。
「ジョウイ……?」
灯りの中に青ざめた顔が浮かぶ。
ジョウイは闇に慣れた目を細め反射的に光の方に視線を移して、その側に置かれたリンゴに気がついた。
思わず息を呑む。
甘く熟した果実の紅さ。
ただ甘味を増して腐ってゆくだけの紅―――
吐き気がする。
「ジョウイ……」
「……っ……」
伸ばされた手を、衝動的に振り払っていた。
ユーナクリフが面食らって動きを止める。その顔を見ることもできずにジョウイはうずくまった。
「……気持ち……悪い……」
視界が揺れて背筋を悪寒が駆け抜け、指先から痛いくらいに体温を失ってゆく。
貧血を起こしているのだ。
ユーナクリフはそれに気づいてそっとジョウイの肩に腕を伸ばした。ジョウイはびくりと身体を震わせたが今度は払われなかったので、そのまま肩を優しく押して横たわらせる。
「待ってて、下で水貰ってくる。すぐに戻ってくるから」
きちんと反応が返らないのを不安に思いながらユーナクリフは部屋を飛び出した。
扉の閉まる音をジョウイは遠くに聞いた。
―――気づきたくなんかなかったのに。
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