水を汲んで部屋に戻ってみると、ジョウイは動かないままぼんやりと天井を眺めていた。
「ジョウイ……?」
呼んでみるとゆっくりと視線が返ってきたのでユーナクリフはほっとした。
短くなった蝋燭を新しいものに替え、布を濡らして固く絞る。まだジョウイの顔は血の気を失っていたが、先程よりは大分色が戻ってきていた。
「大丈夫かい?まだ気分悪い?」
ジョウイの額から顔を優しく拭い、もう一度布を絞って額に置いた。乱れた髪を梳くとジョウイはかすかに身じろいだ。
「…………って……」
「え?」
「昔のようにはいかないんだって……言ったのは僕だったのにね」
ユーナクリフの手が止まる。
ジョウイの口元に自らを嘲る笑みが浮かんだ。
「君たちが変わらずに笑いかけてくれるから気づかなかった……いや、気づかないようにしていたんだ」
ナナミも大人になる。少女から女性に。ユーナクリフが声をかける女の子も、子供の遊びとしてではない期待を持つようになる。
『なんだよジョウイ、やきもちやいてんの?』
あの他愛のない一言に答えを詰まらせたのは。
―――そうだよ。嫉妬していたんだ。嫌だったんだ。
元に戻ることばかりを望んであの頃にしがみついて。
いつだってお互いがいちばん大切だった。それが当たり前だったから、当たり前すぎて、そうでなくなったらどうしたらいいか分からないんだ。
認めたくなかった。
離れている間の時間が止まっているわけがなかったのに。
自分の知らない場所で彼らが変わってしまったことを―――
「……そうだよ、昔とは違うんだ……僕は変わってしまった。ナナミも……君も」
降りた沈黙を不意にユーナクリフが破る。その声は低くくぐもっていた。
「ねえジョウイ、知ってた?僕……背が伸びただろ。君も伸びたけど、僕の方が伸びたよ。もう君と変わらないんだよ……でも、本当は……本当に変わったのは……」
ぽつりと温かい雫が降ってきて、ジョウイは驚いて身を起こした。途端に鈍い頭痛がしたが構っているどころではなかった。
「ユノ……どうして君が泣くんだい?」
記憶にある限り、ジョウイは彼の泣き顔など見たことがなかった。ゲンカクが死んだ時だってしゃくりあげるナナミの隣でじっと堪えていた。泣かないというわけではないけれど、人前で泣き顔を見せたがらなかったのだ。
涙を拭おうともせずにユーナクリフは小さく首を振った。いくつも言葉が浮かぶけれどうまく言えない。
ためらいがちなジョウイの指が頬に触れて、ようやく震える声が出る。
「…………嫌わないで」
ジョウイが目を見開く。ユーナクリフは囁くように繰り返した。
「僕を嫌わないで。嫌いにならないで―――」
「ユノ……」
ジョウイの手から逃れるようにユーナクリフは身を引いたが、昏く濡れた瞳は逸らされなかった。
「君に背を向けられたときからずっと思っていたよ。本当は君が言うように逃げてしまいたいとも思った。そういうわけには行かなかったけれど……だけどずっと怖かったんだよ。嫌われたくなかったんだ。敵だと思われても、殺そうとされてもいいから……君に嫌わないで欲しかった。だから君と……以前みたいに親友に戻れるならそれでいいと思ってた」
ジョウイがそれを望んでいることを知っていた。親友としてなら優しい日々が戻ってくることもわかっていたから。変わってしまったものを元の型に当てはめることは不自然で、どうしても歪みが出てしまうのに、それでも歪みを隠し続けて。
「気づかないで欲しかったんだ……」
君が知らないうちに変化したこころを知られてしまったら。
君に隠していた想いが暴かれてしまう。
僕は今、恋をしているんだってこと。
……ジョウイ。
君が好きなんだよ。
頼りなく揺れる灯りの中で、ジョウイはただその涙に目を奪われていた。
どれだけそうしていたのか、二本目の蝋燭は半分まで燃え尽きようとしていたが窓の外は薄明るくなっていた。いつの間にか雨が止んでいたようだった。
ジョウイはひとつ深く息を吐いた。
「ユノ、どうして君を嫌いになんかなれるんだよ」
微笑みと共に広げられた両腕を、ユーナクリフは信じられない思いで見つめた。
「昔から僕にとっていちばん大切なのは君なんだよ?」
「……本当に……?」
「こんなに君が大切なのに、嫌いになれる方法があるなら教えてもらいたいくらいだ」
なれるものなら戦場にいたあの時になっていただろう。それができなかったから今ここにいるのだ。
動こうとしないユーナクリフに業を煮やしたのか、ジョウイは自分からベッドを降りて彼を抱き締めた。温かい腕の中でユーナクリフは呆然と瞬きだけを繰り返す。
「これから僕が変わってしまっても……好きでいてくれる……?」
耳元でジョウイがくすりと笑った。
「君が変わってしまったとき、嫌われるのは僕の方だと思っていたよ」
自分がこれだけ変わってしまったなら、彼がどんなに優しくても血と罪にまみれた自分は見放されてしまうと思った。
変わってしまったその先にあるものを見るのが怖くて。
いつも隣に寄り添っていた温もりが、想いが離れていくことが恐ろしかった。
ユーナクリフは小さく吹き出した。
「言ったろ、僕の一生の恋は君だけだって」
「……あれ本気だったのかい?」
「そうだよ!」
泣き笑いでジョウイの背に腕を回し、肩に顔を埋めた。
「君の変わったところも、変わらないところも……大好きだよ、ジョウイ」
◆◆◆
「そろそろナナミが起こしに来る頃だと思うけど……」
窓の外は大分明るさを増していた。名残惜しいと思いながらもユーナクリフは頷いて少し身体を離した。
「うん、きっと今日は元気になってるよ」
「じゃあその前に顔を洗っておいた方がいいんじゃないか?目が真っ赤だよ」
前髪をかき上げられ、ユーナクリフはかぁっと顔中を朱に染めてジョウイの腕から慌てて抜け出した。
「み、見るなよっ」
「なんでさ?さっきまで目の前であんなに泣いてたくせに……」
「言うなっての!恥ずかしいからに決まってるだろ!!」
ユーナクリフは汲んできた水で乱暴に顔を洗うと、猛然と着替え始めた。ジョウイも自分の着替えに手を伸ばしながら呟いた。
「……なんていうか」
「なんだよ?」
「泣き落としにかかった気分だ」
無言で残った水がぶっかけられた。
「ぶっ……ユノ!いくらなんでもひどい!」
「顔を洗う手間が省けたじゃないか」
ユーナクリフはじろっとジョウイを一瞥し、タオルを投げつけると扉に向かった。
「どこ行くんだい?」
「ナナミのとこ!たまには起こされるばかりじゃなくて僕が起こしに行くよ」
いつもの紅い上着の背中を見送って、ジョウイはしかたなく掴んだタオルで顔を拭った。そのまま濡れた髪を拭こうとしたら机の上に置かれたままのリンゴが視界に入り、なんだか可笑しいような情けないような気分で苦笑が上ってきた。
手に取って口元に持ってくると甘い香りがする。
紅く熟し、やがて腐ってゆく果実。地に落ちればそこから新たに生命が育つ。
血に染まった焼けた大地にもいつか新しい生命が芽吹く。
受け継がれるものもあれば変わるものもある。
「……こんな簡単なことが認められなかったなんてね」
変わらない姿の幻の型を被せて、本当の姿を見ようとしなかった。
古く固くなった殻を脱ぎ捨てたら、その中にどんな姿があるのかはわからないけれど。
美しくても醜くても、ただまっすぐにそれを見つめていればよかったのだ。
僕は僕で、君は君で。
これからも変わっていくし、その先に何があるのかはわからない。
だけどきっと―――
変化した僕はきっと、変化した君を愛さずにはいられないのだから。
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