王者の叡智
冷たく細い指が頬を撫でてゆく。
ボーエンが目を開けると、間近に美しい貴婦人の悲しげな顔があった。
少年の頃憧れた宝石のような色合いをそのままに、きらめく瞳を涙が濡らしている。
「王妃……」
「ボーエン……ボーエン、ごめんなさい……あの子はなんということを……」
そこで我に返ったボーエンは、体中がぎしぎしと軋むのを無視して飛び起きた。
王妃を前に自分はどのような状態なのだ!?
胸から腰へ女物のマントが滑り落ち、乱されたままの黒いチュニックが顕になる。むきだしの脛には痣が浮き、内腿にべっとりと不快感が貼りついている。
聡い貴婦人はここで何が起きたのかを正確に理解してしまっただろう。ボーエンは背を丸めて唸った。あまりの羞恥に言葉も出ない。
「ああ、ボーエン……」
王妃は顔を背け、震える手で額を押さえた。
豪奢なマントを身体に巻きつけ、ボーエンはよろよろと立ち上がった。
支えようと伸ばされた華奢な手をそっと遮る。
「ボーエン、わたくしにできることは?」
「……いいえ」
王妃は散らばった衣服を拾い集めている騎士を無力感に満ちた目で見つめていたが、耐え切れなくなったのか嗚咽を漏らしながら小走りに部屋を出て行った。
ボーエンは食いしばった歯の間から掠れた声を押し出した。
「王妃よ、アイノンはどうしてしまったのです」
黒衣の騎士が知る教え子は、はにかみ屋で負けず嫌いの少年だった。多少意地っ張りで神経質な所はあっても、残忍な笑い方をするような王子ではなかったはずだった。あまつさえ、このような暴挙に出るなど。
何がアイノンを変えたのだろう。一体いつから?
朝の日が射す部屋を見回せば、蝋燭の明かりに響いた耳障りな哄笑が甦ってくるようだ。
―――どうしたボーエン?新王のお召しだ、もっと嬉しそうにしろ。
ボーエンは目を強く閉じ、ひりつく手首を押さえた。袖に隠されたそこには、赤い跡が残っているだろう。
あらかじめ用意された罠に踏み込んだのだ。事態を把握できないままに寝台に転がされ、動けないよう腕を支柱へ括りつけられた。
「アイノン!何をする!?」
言葉にできたのはそれだけだ。アイノンはすぐさま布を噛ませてボーエンの口を塞いでしまった。
「おまえはうるさい。いつも……いつもだ」
嘲りを含んだ冷たい声。揺らめく明かりの中でぎらりと光る瞳が背筋を凍らせる。金の髪の上に所有者を代えたばかりの王冠が鈍く輝いていた。
魔物じみた笑みが広がる若い王の顔を、ボーエンは正視することができなかった。悪夢のようだ。長い時間を共に過ごした教え子だというのに、彼が何を考えているのかまったく解らない。
乱暴な手つきで剣帯が外され、ベルトが引き抜かれ、チュニックが開かれ……ボーエンにはそれが何を意味しているのかすら解らなかった。
作業が終わると少しの距離を置いて、アイノンは可能な限りの衣服が剥がされ晒された肌を見渡した。
「いい格好だ」
均整の取れたしなやかな体躯を引き締まった筋肉が覆っている。だが、その王国一と謳われる強靭な肉体も今や繋がれた獣同然。無遠慮な視線に舐め回され、ボーエンは居心地の悪い思いをした。
「おまえは父王に嫌われていたな、ボーエン。なぜだか解るか?解らないだろう?」
わたしには解ったんだ。横たわる騎士の耳元まで唇を寄せ、アイノンは低く囁いた。
「無垢な騎士などただの愚か者だからさ」
「……!」
抗議しようにも、起こそうとした身体は縛めに阻まれ、言葉を紡ぐこともできなかった。ボーエンはただ非難を込めた目でアイノンを睨みつけた。
返ってきたのは冷笑だった。
アイノンはガウンを落とし、夜着の裾をたくし上げて寝台に乗ってきた。ボーエンは目を疑った。薄い夜着の下に見えた身体は、男性として興奮していたのだ。
戸惑いに見開かれた青い瞳に、酷薄な笑みを浮かべた青年が映る。
「感謝しろ。愚かなお前にも解るようにしてやろうと言うのだ」
―――そして、アイノンは信じられない行動に出た。
「ううっ……ぐ……!」
くぐもった悲鳴が上がる。
無理やりに侵入してくる異物。経験したことのない痛みに襲われ、ボーエンの背が弓なりに反らされた。
逃げ場を探してもがく脚は容易く捕らえられてしまう。
「きついな」
アイノンは顔を顰めて身を起こした。ボーエンが内側から引き抜かれる感触に肌を粟立てたのも束の間、再度、更に深く楔を打ち込まれて息が止まった。
断続的な呻き声と寝台の軋む音が暗い部屋に谺する。
混濁し始めた意識の中で、ボーエンは疑問と困惑の淵に突き落とされていた。
なぜこんなことになったのか。信じ難いことだが、自分は今アイノンに犯されているのだ。
揺れる視界に膜が張り、零れ落ちた。
どうして……どうして。
答えを得るどころか、問いを投げかけることすらできない。
「泣いているのか、ボーエン?」
愉悦に満ちたアイノンの声は笑いを含んで震え、やがて高い哄笑になった。
身体を激しく揺すりながらも、青年王は頭上の王冠を落とさないよう支えている。
止めようもなく涙が溢れた。
アイノンは変わってしまった。王国の未来を担うべき、愛すべき教え子は変わってしまった。
傷の痛みと熱に浮かされながらも、あの唇は騎士の誓いを復唱したはずなのに。
善き王になると、誓ったはずなのに。
洞窟の暗闇に棲む巨大な生き物の、金色に輝く瞳の前で。
あの魔性の瞳の前で―――。
ボーエンははっとして顔を上げた。おぞましい記憶をさ迷っていた意識が現実に引き戻される。
アイノンが変わったのはあれからではないのか?
ならば、原因はそこにあるはずだ。確かめなくては。
洞窟の場所なら覚えている。城を後にしたボーエンは、すぐさま身支度をして馬を駆った。酷い扱いを受けた身体は馬上の振動に痛みを訴えたが、構っている場合ではなかった。
古い砦が見えてきたところで進路を少しずらす。ここにアイノンが向かったと聞いていたからだ。昨夜の狂態を演じた後、どうしているのかが気になった。
不幸なことに、ボーエンが目にしたのは虜囚をいたぶろうとする若い王と、彼にへつらう騎士たちの姿だった。
昨夜の悪夢はまったく醒めてなどいなかったのだ。
ボーエンはほとんど無意識のうちに剣を抜いて虜囚たちの手枷を叩き割っていた。
「あなたは魔法をかけられたのだな。騎士の掟はどうした」
馬を降り、大股に近づいてきた騎士の鋭い問いにアイノンは一瞬たじろいだが、倣岸な態度を崩さず彼を見下ろした。
「王は掟よりも尊いものだ」
怒りが限界に達し、ボーエンは白い外衣を鷲掴みにするとアイノンを馬上から引きずり下ろした。
王冠が地に転がる。控えていた騎士たちが息を呑んだ。
「掟を忘れたのか?王たる者が!?」
あれほどわたしが心を傾けて教えたことは。
肩を揺さぶられたアイノンは、引きつった顔でボーエンを睨み返した。
なんという昏い瞳だ。
ボーエンは言葉を失った。なんという瞳だ。誠実さを語らず、虚栄のみを映している。
これほどまでに彼は蝕まれているのか。
無念の思いで歯を食いしばって、ボーエンは教え子を一度強く抱きしめると、手を離した。
こうなったら、是が非でもあの魔物がかけた魔法を解いてやる。
振り返りもせず再び馬に飛び乗り、急いた心のまま野に駆け出す。渦巻く激情で血液が沸騰しそうだった。
―――だが、その決意を実行することは叶わなかった。
洞窟には既にあの巨体は影も形もなかったのだ。
ただ騎士の怒りに満ちた咆哮が、虚しく響くだけだった。
「どこの空を飛んでいようと、どこに身を隠そうと、必ず探し出してやる!ドラゴンめ!!」
言葉違わず、彼は竜殺しの騎士として流浪の12年を過ごすことになる。
欠けた心臓を持つ、この世で最後のドラゴンに出会うまで。
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