想い花籠



 



 それは遅すぎた想い。
 黒い流れに点々と散ってゆくとりどりの花。
 こんな暗く湿った陰気な世界はあの人には似合わない。だからせめて、両手いっぱいの花を。

 ―――オデッサ。

 トリスラントは吐息のように幽かに、その名を口にした。
 あなたは自分の選択を後悔していないのか?
 最後に見た表情は―――微笑み。
 あなたに出会って、あのときから僕は子供であることをやめたんだ。
 ぽつりぽつりと呟く度に、一本ずつ花を流れに乗せてゆく。
 気づいたときには遅すぎたけれど。ソウルイーターは僕自身よりも正直だった。
 オデッサ、僕はあなたのことが……
 ちりり、と右手が灼ける。
「うるさい。大人しくしていろ」
 トリスラントは険しい表情で手袋の下の紋章を押さえつけた。身体の奥底で何かが蠢くような、そんな忌まわしい感覚はこの街に入るしばらく前から始まっていた。
 『魂喰い』と呼ばれる闇色の紋章。戦争中には糧に困らなかったそれも、今は宿主に抑えられて飢えに疼いていた。
「僕の記憶や感情に呼応しているのか……」
 もう吹っ切ったと思っていたのに。
 収まるどころか、右手はじりじりと熱くなってゆく。トリスラントはこの場にひとりきりでいるという状況に感謝した。多少暴走してもここなら被害はほとんどない。
 呼吸を押し殺して衝動が行過ぎるのを待つ。
 ―――思い出したのは彼のせいだ。
 意志が強くて潔癖で、そして僕を見ない瞳。
「でも……彼はオデッサじゃない」
 トリスラントは自分の右手に向かって低く呟いた。
 オデッサとは違うんだ。だからこんな感情は。
 膨れ上がる闇の力はじりじりと圧力を増してゆく。
「違う。彼はおまえの餌にはならないよ」
 もう少し、この衝動が過ぎれば、またしばらくは抑えておけるだろう。
 暗い通路の隅で、トリスラントはひとりうずくまっていた。



◆◆◆



 ロックランドを出て以来、トリスラントの見せる態度が変わっていることにジョウイは気づいていた。
 表面上はいつもと変わらない。しかしどこかよそよそしくなった気がする。
「……別に、今まで仲が良かったってわけでもないけどさ」
 こぎれいな宿の、自分たちにあてがわれた部屋の扉を眺めながらジョウイはひとりごちた。
 隣のベッドからは幼馴染の規則正しい寝息が聞こえてくる。レナンカンプに泊まって今夜で三度目の夜。
 思い返せばロックランド以来、身体を重ねるどころか軽く触れることすらない。
(飽きたのかな……)
 ほんの気紛れのつもりで続けていた繋がりを面倒くさく思い始めたのかもしれない。
 小さく唸ってジョウイは寝返りをうった。今夜の眠りはなかなか訪れてくれないようだ。
 トリスラントに飽きられたからって、だからなんだと言うんだ?別にいいじゃないか。嫌いな相手と近づかずに済むのだから、かえって好都合ではないのか。
 そもそもどうして自分は彼に抱かれようとなんて考えたのだろう?
 無理やりに近い形で抱かれたことを許す気もないし、彼に対する劣等感が消えたわけでもない。それでもあの時には彼の部屋を訪ねることがとても必要なことだと思ったのに、今となってはどうしてそう感じたのか思い出せない。
 結局、自問する度答えを出せずに終わっている。
 堂々巡りの思考を断ち切ろうとジョウイはベッドから降りた。階下で水でももらってこよう、そう考えて、隣のベッドで眠っている幼馴染の眠りを妨げないよう静かに扉を開閉した。
 廊下に出て階段を半ばまで降りたところで、闇に慣れた目にぼんやりとした灯りが見えた。ゆらゆら揺れてその灯りはランプか何かだろう、どうやら先客がいるらしい。そのまま進むか引き返すか逡巡している間に灯りは移動して、消えてしまった。
 ジョウイは訝しんだ。それが動いた方向は宿の玄関とは反対の方向だったのだ。階段を降りきって見回してみたが、人影はどこにもなかった。
「確かこっちの方に行ったと思うけど……」
 その先には宿のカウンターがある。奥に大きな時計が据えられており、よく見ると端にレバーのようなものがついていた。
 ……以前にもこんなパターンがあった気がする。まさかとは思いながらもレバーを押してみると、何らかの仕掛けが動いたらしく時計がその場所を空け始めた。呆れ返ったジョウイの前に、地下に続く階段が現れた。
 ジョウイは濃い闇にしばし躊躇したが、降りてみることにした。
 地下のひんやりした空気に篭った水の匂いが混じっている。通路の奥に先ほどのランプの光が見える。慎重に近づき、壁の影に入りながら様子を伺ってみると、淡い光の中に座り込んでいる赤い上着が見えた。
 暗い流れにぽつぽつと浮かんで流れてゆく花。何かを祈るように伏せられた横顔がまるで透き通るように見え、思わず声をかけそびれた。やがて気配を感じたらしい彼が顔を上げるまでジョウイはそこに立ち尽くしていた。
「なんだ、誰かと思ったら……ジョウイ、君こういう場所見つけるの得意なのかい?」
「……トリス、あなたこそこういう場所が好きなんですか?」
 トリスラントが苦笑して立ち上がると、その拍子にぱらぱらと花びらが膝から落ちた。
「別に好きってわけじゃないさ。ただここはね……僕の大切な人が亡くなった場所なんだ」
「大切な、ひと……?」
「そう……知っているかな、オデッサ・シルバーバーグという女性さ」
 聞いたことはある。確か、トリスラントの前にトラン解放軍のリーダーを務めていた人物だ。トリスラントの名に隠されて他国では知らない人も多いが、史実を調べれば必ず出てくる名だ。
 それだけに、目の前にいる人物が(自分もその一人ではあるのだが)確かに歴史を作ってきたのだと感じられて、なぜか胸がきり、と痛んだ。
「オデッサは強い人だった……僕は彼女が好きだったよ」
 言ってから、ジョウイの表情を確認したトリスラントは片眉を上げて手に残った最後の一輪を流れに投げた。
「僕だって恋くらいするよ。もっとも、彼女はフリックの恋人だったから、望みはなかったんだけどさ」
 口調には軽さを装いつつも、かすかな哀惜と嫉妬が滲んでいる。何も言えないでいるジョウイをトリスラントは手招いた。数歩近づいたところでトリスラントは手を伸ばし、ジョウイの首の後ろでまとめられた髪に触れる。
「……無用心だよ、ジョウイ。ここで僕が君の首を絞めたらどうするんだい?」
 ジョウイはその可能性を考えなかった自分に愕然とした。招かれるままに近づいて、触れることを許して。いつの間に自分はこんなに彼に慣れていたのだろう。
 だが、こういう時ほど表情をなくしてゆくのはジョウイの利点であり欠点でもあった。
「……言ったでしょう、あなたの好きにすればいいと」
 いらぬ意地だと思いながらも、言い返さずにいられない。
「だったら―――」
 ふっと漆黒の睫毛を伏せ、トリスラントは静かに言った。
「もう終わりにしようか」
「終わり……に?」
 首の後ろで髪留めが外される。細い金の波がはらりと広がって揺れた。
「こういう関係は、もうやめよう」
 数瞬の間をおいて、理解したジョウイの目が見開かれる。
 ゆるりと笑みの形を作ったトリスラントの唇が近づく。ジョウイの頬に触れる寸前で、囁きが紡がれた。
「今まですまなかったね。これからはできれば良い友達になれるといいんだけど」
 ジョウイは微動だにせず、灯りを置いて去ってゆく背中を見つめていた。



◆◆◆



 部屋に戻ってみると、幼馴染の少年がベッドに腰掛けて出迎えた。
「ユノ、起きてたのか」
「どこ行ってたんだよ?」
「別に……水を飲みに行っていただけだよ」
 ジョウイは気だるく答えて自分のベッドに戻ろうとした。
「ウソだね」
 驚いて顔を上げると、ユーナクリフはわざとらしく大げさに溜息をついて見せた。
「ひっどいよなぁ、ジョウイはさ。僕たちもう10年以上も一緒にいて兄弟同然に育ってきた親友だっていうのに、大事なことぜーんぜん言ってくれないんだ」
「……何のことだい」
 怪訝に思って訊けば、ユーナクリフはにやにやしながら、
「隠さなくたっていいじゃないか。トリスのところに行ってきたんだろ?」
 心臓が止まった気がした。同行者たちには気づかれないように、ジョウイもトリスラントも気を遣っていたはずなのに。
「初めはあんなに仲悪かったのに、いつの間にそういうことになったのさ」
 ユーナクリフは彼らが親しくなっただけではなく、更にもっと進んだ関係にあると思っているらしかった。彼の楽しそうな顔を見ていたらジョウイは無性に苛立ってきて、つい刺々しい声が出た。
「何を誤解しているんだか。僕とトリスは別に仲良くなんてなっていやしないんだけどね」
 年上の幼馴染に珍しく冷たい態度を取られ、ユーナクリフは目を丸くした。
「ウソだぁ、だったらなんで……」
「なんで……何?君、何か見たのかい」
 ジョウイは口元を歪め、わざと身を乗り出してみせた。
「僕がトリスとキスしてた?抱き締めあってた?覗き見とはいい趣味だな……でも、それくらいやろうと思えば誰とだってできるだろ」
「の、覗き見なんてしてないよ!!でも、だからって、僕だって君らが何してたのか見当がつかないほどガキじゃないんだからな、バカにするなよ!」
 ユーナクリフは怒りにかっと頬を朱に染めて怒鳴ったが、ジョウイは怯まず、反対にせせら笑うだけだった。
「確かに僕はトリスと寝たけど、だからなんだい?ガキじゃないって言うなら、まさか好きな相手とじゃなきゃセックスができないなんて、本気で言ったりしないよね」
 こんなことを言ったら嫌われるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。だがそれすらどうでもいいと思えるほどジョウイは投げやりな気持ちになっていた。自分でもおかしいと思うが歯止めが利かないのだ。あからさまな言葉にユーナクリフは顔を更に赤くした。
「じゃ、じゃあ、どうしてトリスと……その、してたんだよ」
「嫌いだから」
 ジョウイはついと顎を上げて即答を返した。
「知っているかい、ユノ?男にとってセックスっていうのは、相手を征服するっていう意味があるんだてさ」
 目を見開いてユーナクリフは聞いていたが、やがてためらいがちに瞼を伏せた。
「征服?ジョウイは征服したいの?ハイランドの代わりになる国が欲しいの?」
 ジョウイは一瞬呆気に取られ、間抜けた声で問い返した。
「どうしてそうなるんだ?」
「違うの?ならジョウイはどうしたいんだよ?言ってくれなきゃわかんないよ!」
 とうとうユーナクリフは立ち上がって叫んだ。
「君がトリスのところに行って、僕が嫉妬しなかったとでも思ってんの?悩み事があるならどうして僕に相談してくれないんだろうって、いつも思ってたんだよ。でも君がトリスの方がいいって言うなら、それでいいって……。僕に……僕やナナミにとって君がどれだけ大事な人なのかわからないのかよ?」
 大きく波立った感情を抑えようと大きく息をつく。
 君は僕たちになんにも望んでくれなくなったね……
 続けられた小さな呟きをジョウイは聞いていた。
「ねえ、もっと我侭になっていいんだよ。君はもっと自由に生きていいんだ。トリスが欲しいならそう言えばいいし、彼を他の何かの代わりにしたかったなら、本当に欲しいものを言ってくれればいい。彼が嫌いなら……ここでトリスたちと別れたっていいんだよ。君が我慢しなきゃいけないことなんて何もない。本当は……僕たちのことなんていらないって言うなら……君は僕たちを置いていくことだって……できるんだよ」
 言葉の最後は濡れて掠れていた。ユーナクリフはひとつ鼻をすすって、赤くなった目を擦った。
「ナナミは……ナナミは怒るかも。僕だって嫌だけど……でも君が無理して僕たちに合わせるくらいならその方がいいって、ナナミだってきっと言うよ」
 ジョウイは喉で止まってしまっていた声をようやく押し出した。
「……僕が無理しているように見えるのかい?」
「だってジョウイは笑わなくなったよ。それに怒らなくなった。自分から何かやろうって言わなくなった。前は止めたって突っ走っていったくせにさ」
「それは……」
 そうかもしれない。思った瞬間、ジョウイの中ですとんと何かが収まった気がした。見えていなかった自分の感情があっさりと扉の向こうに見えたような。
「ああ、そうか……そういうことだったのか……」
 口元を押さえて苦笑を漏らしているジョウイを、ユーナクリフが不思議そうに見ている。ジョウイはベッドに腰を下ろすと力なく笑んでみせた。
「バカだな、僕は。君の言うとおりだ……無理をしていたとは思わないけど、君たちに言わなくちゃいけないこともたくさんあったはずなんだ」
 あんまり情けなくて笑うしかない。
 自分がどれだけトリスラントに甘えていたのか分かってしまった。やさしい幼馴染たちを再び失ってしまうことを恐れ自分を隠す一方で、嫉妬や憧憬、劣等感や罪悪感……諸々の感情をないまぜにして彼にぶつけて。そのくせそんな自分の感情に向き合うのも怖くて、嫌って見せることで気づかないフリをしていた。
「トリスには悪いことをしてしまったな、僕の勝手につき合わせてしまって。多分、本当に嫌いだったわけじゃないんだ」
「これから仲良くなれそうかい?」
 もしだめならこの街を出たあたりで別れることもできる。ユーナクリフは心配そうにジョウイの顔を覗き込んだが、ジョウイは肩を竦めるだけだった。
「さあ、無理じゃないかな。彼も僕のことを嫌っているし……今までは利害が一致していたけど、もう終わりにしようって向こうから言われたよ」
「終わりにって……」
「ふられたってことだろうね」
 トリスラントが突然やめようと言い出した理由がやっと分かった。無意識にしろ彼を利用していたのだから、見放されたとしても仕方のないことなのだろう。この街にはオデッサという女性の思い出がある。だからもうジョウイに興味を向ける必要もないのだ。
 絶句したユーナクリフとは裏腹に、ジョウイはただ微笑んでいる。
 そうだ……思い出してみれば、キスすらしてもらえなくなった。たとえそれが何の感情も込められていない行為だったとしても。
「本当にバカだよね、失恋してからそうと気がつくなんてさ」



 
 

 



あはは…ここまで書くのに何ヶ月かかってるんでしょう。
どうにも展開が気に入らなくて書いては消しを繰り返しちゃいましたよ。
ともあれ、なんとか次回には完結……に辿り着きたいなぁ。


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