名のない杯
―――別に、入れ込んでしまうつもりはないんだ。 そのフレーズはもう何度目になるか分からない。 ―――本気になるつもりなんかない。少し、気になるだけだ。 言い訳じみていると自分でも思う。 ―――このままでは危険だ。 「……馬鹿馬鹿しい」 吐き捨てて、見たくないモノを手袋で隠す。どこかで囁く声をかき消したくて、杯を煽った。 「っ……結構強いな、これ」 喉に絡む液体に、小さくむせる。 この瓶を選んだのは失敗だっただろうか?ラベルにあった紋章に惹かれて、つい封を切ってしまったのがいけなかったのかもしれない。 ほの甘くて、少し苦くて、胸を灼くような……そんな感情を忘れるために口をつけたのに。 「イヤになるなぁ……同じ味がするじゃないか」 それでも再度杯を満たして、トリスラントは息を吐いた。 宿の入口で、丁度帰ってきたジョウイと、出て行こうとするグレミオが鉢合わせた。 「あ、ジョウイ君、坊ちゃんを見ませんでしたか?」 「いえ、見ていませんけど」 「そうですか……」 どこへ行ってしまったのだろうとグレミオは首を捻りながら戸口をくぐって外へ出て行った。狭い街なのだから、少し探せばすぐに見つかるだろう。 ここはグレッグミンスターからほど近い、ロックランドという小さな街だった。ユーナクリフとナナミ、そしてジョウイの三人の旅にトリスラントとグレミオが加わったことで、一行はトラン国内を解放戦争でのトリスラントの足跡を辿ってゆこうということにしたのだった。 この街で、トリスラントは初めて解放軍の一員として行動した。帝国の軍政官に捕らえられた解放軍の仲間を救出しに行ったのだ。 ユーナクリフとナナミはまだ街中を見物して回っているはずだ。ジョウイはのどかな街の雰囲気に、なんとなく居たたまれない気持ちになって宿に戻ってきた。 トラン解放の英雄の始めの一歩は、逃亡者として始まったのだと言う。状況は違えど自分たちの戦いの始まりも同じようなものだったことを考えると、トランの英雄物語を幼馴染と憧れ混じりに語った日々の遠さが身に染みた。 小さな宿屋の中に入ると、カウンターにいつもいるはずの主人はいなかった。ジョウイはカウンターの向こう側の窓にグレミオが通り過ぎた気がして、様子を見ようと一歩内側に足を踏み入れた。 「あれ……?」 ふと、靴の立てる音が変わった気がして目を落とすと、床板の縁に妙な出っ張りがある。何だろうと思って、好奇心から爪先でつついてみた途端、足元の床が抜けた。 「うわッ!?」 背中がどこかを滑り、重力に従って落下する。足元を支えていた床板が回転したのだと見当が付いたのは固い底にどさりと投げ出されて、更に数秒かかってからだった。 板はぐるりと一周回り、ばたんと音を立てて元のように入口を塞いだ。 痛みをこらえ慌てて身体を起こしてみると、ぐんと暗くなった視界の中で、燭台の灯りに照らし出された漆黒の瞳が大きく見開かれていた。 唐突な出来事に双方共にしばらく言葉を失っていたが、先に口を開いたのはジョウイの方だった。 「……トリス、こんなところにいたんですか」 「大丈夫かい?……驚いたな。ここが見つかるとは思っていなかった」 「驚いたのはこっちですよ……何なんです、この隠し扉みたいなのは」 不思議そうに見回すジョウイに苦笑しながら、トリスラントはジョウイに手を貸して立ち上がらせた。 「みたい、じゃなくて隠し扉なんだよ」 地下にある小部屋には窓もなく、燭台に灯る蝋燭以外に光源はない。小柄なジョウイやトリスラントがまっすぐ立ってぎりぎり頭がぶつからないのだから、大人の男ならかがんでいなくてはならないだろう。さして広くもない空間に荷物が積み上げられ、中心には小さな机が据えられている。 「国境警備のバルカスって知ってる?」 ジョウイは曖昧に頷いた。国境を越えてトラン領に入るとき、ユーナクリフに名前だけは聞いてはいたが直接会ってはいなかった。 「彼、昔は山賊でさ。ここから東にある山にいたんだけど実は解放軍の協力者だったんだ……宿屋の主人も、実はね。ここは彼らの秘密の集会所だったってわけ」 トリスラントはこの宿屋のことを解放戦争の最中にバルカス本人から聞いたのだった。有事の際には好きなように使ってくれと言われたが、実際に足を踏み入れたのは今回が初めてだ。 机に戻ったトリスラントはジョウイにも椅子を勧めた。机には鶏卵ほどの大きさの杯が置かれ、アルコールの匂いが漂っている。 「飲んでいたんですか?」 「そう、やけ酒さ。ここなら酒くらい置いてあるだろうと思ったけど、大当たりだな」 「やけ酒?」 トリスラントはそれ以上答えず、反対に問い返した。 「せっかくだから君も飲むかい?さすが、いい酒が揃っているよ。帝国貴族を襲っていただけのことはある」 そう言って彼が掲げた瓶のラベルには、旧ハイランドの紋章と一地方の名が描かれている。 ジョウイは目を瞠り、差し出された杯を思わず受け取っていた。芳醇な香りが鼻を擽る。ハイランド貴族でさえ気軽には飲めない代物だった。 「またこれが飲めるとは思わなかった……」 ほんの少し舌先に転がしてまったく劣化していない味を確かめてから、一気に煽る。 「へえ、いけるクチだね」 トリスラントは戻ってきた杯を再び満たし、同じように煽った。それからもう一度酒を注いでジョウイに渡した。 「本当は僕だけで独り占めする気だったんだけど、見つかっちゃったから仕方がないね」 「独り占めねぇ……こんなにいい酒をやけ酒には勿体ないと思いますが」 ジョウイが顔を顰めるので、トリスラントは机の上に転がっていた瓶の栓を拾い上げた。 「じゃあ残りは皆で分けようか」 やけ酒の「原因」と二人で飲むのもいいかと思っていたのだけれど。ジョウイはやはりどんなにいい酒でも嫌いな相手と飲みたくはないのだろう。 酒が惜しいのか、状況が惜しいのか、なんとなく寂しい気分でトリスラントが栓をしようとすると、驚いたことにジョウイがその手を止めた。 彼が自分からトリスラントに触れることなど滅多にないことだ。ジョウイはもう一方の手で杯を干すと、愉しげに口の端を持ち上げて言った。 「証拠隠滅する気なら手伝いますよ」 思いもしなかった言葉に、トリスラントは呆気に取られた。 「どうして?ユノやナナミと一緒に飲みたいと思わないのかい」 「それこそ勿体ないじゃないですか」 当然といった顔でジョウイは杯を振って見せた。 「ナナミはすぐに酔っ払って寝ますけどね。ユノなんて味オンチのくせに酒好きで、おまけにザルなんです」 「それは知らなかったな……」 同盟軍にいた頃は周囲の大人たちが飲ませなかったし、マクドール邸に来ればグレミオが控えさせていた。ユーナクリフはさぞかし不満だったことだろう。 「美味くて高価い酒を飲ませるよりは、安い酒を量飲ませた方が理に適っているし彼も喜びますよ。だからこれはここで飲んでしまった方がいいと思います」 まさか独り占めを推奨されるとは思わなかった。呆れ返っていると、ジョウイは更に会心の笑みを浮かべて見せた。 「もちろん、僕には口止め料を払ってくれるんでしょう?」 とうとうトリスラントは吹き出した。 「意外とちゃっかりしているね、君も」 しれっとした態度で悪企みを持ちかけるジョウイに、トリスラントは新鮮な驚きを感じた。ユーナクリフやナナミに対してはあれこれ譲ったり叱ったりして年上ぶっているが、案外こちらの方が彼の本質なのかもしれない。 「だったらグレミオにも内緒にしておいてくれ。ああ見えてうちじゃ一番の酒飲みなんだ、僕にはあまり飲むなってお説教するくせにさ」 肩を竦めて返すと、ジョウイも軽く声を立てて笑った。 こんな風に打ち解けて会話したのは初めてではないだろうか。ジョウイの目にも、普段ならあったはずの警戒がない。 それなのに、トリスラントの頭の中では警鐘が鳴り響いていた。 たぶん、これは危ない。 蝋燭の炎が揺らめく中で、ひとつの杯を空けては回す。取り入れたアルコールの量が増えるに従って、緩慢になる動きがどこか艶めかしく思えて。 ジョウイは杯をトリスラントに返し、瓶を傾けて最後に残った酒を注いだ。 ほんのりと目元が朱に染まって、呂律が怪しいためか口調がゆっくりになっている。しかしジョウイはトリスラントに対していつもより饒舌になっていた。 「この酒は、本来ハイランドの皇家に連なる者だけが飲めるものなんです」 トリスラントは思わず顔を上げたが、ジョウイは視線を合わせず後を続けた。 「昔の話ですよ。今では高価なだけで誰でも買うことができます……でも皇家に捧げられたものであるのは確かですから、ハイランドが滅んだ今、新しく作られることはないでしょう。おそらく現存するものが最後です」 「……なるほど、やけ酒には勿体なさ過ぎるな。そんなものを僕が飲んでしまっていいのかい?」 だからこの場で飲んでしまおうと持ちかけられたのか。 トリスラントは口元に寄せた杯を止め、渋い顔で目の前の少年を伺った。そんな謂れを教えられて、ハイランドの元皇王の前で飲むのはさすがに気が引ける。飲んでしまった分を返せと言われても困るが、最後の一杯くらいは彼に譲るべきではないかと思ったのだ。 「いいんです。僕だって本当は飲めるような立場じゃない」 ジョウイは机にもたれて、無造作に空の瓶の口を指先でなぞった。 「ブライト王家を滅ぼしたのは僕なんだから」 トリスラントは酒を残したまま杯を置き、身を乗り出してジョウイの瞳を間近から覗き込んだ。 自嘲気味に話す声がどことなく悲しげで。 ……もしかしたら彼は、泣きたいのではないかと思ったから。 「しようか」 違う―――心の中でもうひとつの声が抗議する。 これは酔いのせいだ。こんな風に、彼に触れたいと思うのは。 「何をです?」 分かっていて訊き返しているのは、かすかに浮かんだ笑みから読み取れた。 「密室で二人きり、いい具合に酒も入って……することと言ったらひとつしかないだろう」 「……なるほど」 トリスラントが上着のボタンを外すと、ジョウイは髪留めを外して了解を示した。 「あっさりしたもんだね。僕が嫌いなんじゃなかったのかい?」 「だって、なかったことにするんでしょう?ここでしたことは全部―――」 全部秘密のうち。 だからなんだってできるのだ、とジョウイは笑う。普段の彼はどちらかといえば道義を重んじる方で、こんな背徳的な笑い方をする人間ではなかった。けれどそれはある意味自分も同じで、トリスラントはこの闇に唯一の光源である蝋燭を脇に押しやった。 ユーナクリフにも、ナナミにも、グレミオにも。明るいところに出てしまえばすべてはなかったこと。 そうやって二人とも同じことを言い訳にしている。 これは酔いにまかせてしたことだから、と。 顎のラインに沿って指を滑らせると、ジョウイはその感触を楽しむように瞼を伏せた。 トリスラントは彼の唇に自分のそれを重ねようとして―――できないことに愕然とした。 なぜだろう。今まで気にしたこともなかったのに。 気配が変わったことを訝しく思ったのか、ジョウイが目を開ける。トリスラントは心中の動揺を悟られたくなくて、彼の首筋に唇を寄せることで代わりにした。 「ずるいっ!!!」 午後遅くなって、地下から這い出してきた二人を待っていたのは、大層ご立腹の少年少女と呆れ顔の「自称」保護者だった。 「お昼からずっと探してたのよ!それなのに……」 「二人だけで飲んでたなんて!なんで呼んでくれなかったんだよ!」 「そうですよ!二人とも、仲良くなったのはいいですが、私たちをのけ者にするなんてひどいです〜」 どこにいたのかはともかくとして、ふんぷんとアルコールの匂いをさせていたのではいくらなんでも飲酒がばれないわけはない。 責め立てられているのは姿をくらませていたことなのか、それとも他の者に内緒で酒を飲んだことなのだろうか。判断がつきかねてトリスラントとジョウイは顔を見合わせた。 「グレミオさん、僕お酒買ってきます。この二人は放っといて僕たちで飲みましょうよ」 「そうですね。でもユーナクリフ君やナナミさんはあんまり飲んでは……」 「ええ〜っ、いいじゃないですかたまには!」 わいわい騒ぎながら、なんだかんだで酒好きな連中は自分たちの楽しみの種を入手すべく、宿屋の玄関をくぐって行った。ついでに、 「坊ちゃんたちは、それ以上は飲みすぎですから、今日はもうダメです」 としっかり釘をさして。 トリスラントとジョウイはしばらく唖然としていたが、やがてジョウイがぽつりと呟いた。 「いつの間に仲良くなったことになっているんだろう……」 見えるところで喧嘩まではしていないにしても、お互いにあまり快く思っていないのは、近しい位置にいる者たちにはすぐに分かってしまった。困ったものだと思われてはいたのだろうがこればかりは本人たちの問題だ。 だが、先ほどのグレミオの言葉には非難と共に、確かに嬉しそうな口調が混じっていた。 「仲良く……なっていないかな」 トリスラントは首を傾げた。状況だけで言うなら酒を酌み交わして、(これは知られていないだろうが)身体まで重ねる関係を仲が悪いとは言い難いだろう。 「さあ……そもそも無理じゃないですか?」 「どうして」 「どうしてって?」 トリスラントは何の気なしに問い返したのだが、ジョウイは怪訝な顔を向けた。 「あなたは僕が嫌いなんでしょう」 「…………え?」 急に矛先を向けられて、トリスラントは目をしばたいた。 「そう言ったじゃないですか、あなたが」 確かに……嫌いだと言った覚えはないが、そう取られても仕方のないことを言った気はする。 彼の真意どころか自分自身の心さえ見えなくて、苛立ちを募らせていた頃。 けれど今は。 トリスラントはジョウイの襟元から、隠し切れない赤い跡がうっすらとのぞいているのを見て笑みを浮かべた。 結局、最後まで彼の唇にキスをすることができなかった。 きっとその味はほの甘くて、少し苦くて、胸を灼くような。 亡国の秘伝の酒は今だ身の内を巡って酔いを連れてくる。 「そうだね……」 気づかないうちに、痛みを覚えるほど左手で自分の右手を握り締めていた。 たとえばこの感情に名をつけるなら…… トリスラントはゆっくりと頷いた。 「僕は君が嫌いだよ」
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…ちょっと待て。ちょっと待て〜っ!(大汗)
な、なんでこうなるのでしょう…(訊くな)
私が目指しているのは坊ジョラブラブのはず…なんですが…ねぇ…
…え〜、気を取り直して。
「共犯者のような大人な雰囲気で」とリク頂いたのですが、
果たして共犯者まではともかく、大人な雰囲気になったかどうかはかなり謎です。
お酒飲めるのは大人になってからですけど〜(爆)