丸い封印球が彫られた看板の下、扉をくぐってヒューゴは足を止めた。
各地から変わり者が集まるビュッデヒュッケ城にあって、ひときわ異彩を放つ少年がそこにはいた。
浅黒い、彫りの深い顔立ちに見たこともない異国の衣装。隣には謎の美人紋章師ジーンが立っていて、なんの変哲もない部屋の中でそこだけ妙な雰囲気を醸し出している。
「あ……」
「お……?」
ヒューゴとその少年はお互いを指差してぽかんとした。
「まあ、お知り合い?」
ジーンが妖艶に微笑みながら興味深そうに二人を見ている。
どうして忘れられようか。ほんの数回ではあるがなぜか行く先々で出会い、その度にここビュッデヒュッケ城の場所を尋ねられ、道を教えているにもかかわらずまったく見当違いの場所で再会する。四回目にしてとうとうヒューゴもやけになって嘘の道順を教えた相手であった。
少年は相変わらず尊大な態度でホルテスVII世と名乗った。
「ここがビュッデヒュッケ城なのだな。そちが教えてくれた通りだった。礼を言う」
「え、えっと……どういたしまして」
あんなでたらめを信じて歩いたら辿りつくなんて、一体どういう方向感覚の持ち主なのだろう。嘘を教えた手前ばつの悪いヒューゴを前に、ホルテスVII世はほくほくと嬉しそうに室内を見渡した。
「余はここで札屋を開くことに決めたぞ。これでようやく故郷にいる三人の妻を呼び寄せることができるな」
「三人も奥さんがいるのか!?」
ヒューゴはぎょっとしたが、ホルテスVII世は怪訝そうに見返してきた。
「無論だ。余はもう十五であるぞ」
「十五って……」
「あら、同い年なのね。ヒューゴはまだ結婚していないけれど」
ジーンの言葉に、札師の少年は大仰に驚いてみせる。
「なんと。その年でそちはまだひとりも妻がおらんのか」
余計なお世話である。
呆れ返ったような口調にむっとして、ヒューゴはそっぽを向いた。
「い、いいだろ別に。そんなの……まだ興味ないし、俺の村じゃ普通、結婚できる相手はひとりだけなんだよ!」
カラヤの村では一人前として認められている以上、結婚しようと思えばできることはできる。だがヒューゴにはいまひとつ実感が湧かなかった。
「興味すらないとは、変わっておるのう……。数多くの妻を娶ることこそ男の度量であるぞ。十五にもなって、言い交わした女もおらんのか」
そんなもの……と即答しようとして、何も言えなくなった。
突然脳裏に浮かんだのは菫色の瞳。長くまっすぐな白銀の髪。
……なに考えてるんだ、俺は!!
ヒューゴは顔を真っ赤に染めてぶんぶんと頭を横に振った。
「そんなの……い、いない!」
「何がいないんだ?」
突然背後からかけられた声にヒューゴは振り向き―――
「っうわあああぁぁぁぁぁぁっ!?」
何の気なしに声をかけただけなのに、いきなり絶叫を上げられればさすがのゼクセン騎士団長とはいえ、驚くなという方が無理だ。
扉の前でクリスは菫色の瞳を見開き、面食らった様子で身を引いていた。
「な、なんだ?私はなにか変なことを言ったか?」
ゆでダコのように首筋まで真っ赤にして、魚のようにぱくぱくと口だけを開閉しているヒューゴ。そんな彼を尻目に、ジーンはいつものごとく艶やかな笑みを浮かべてクリスを招き入れた。
「うふふ……。いらっしゃい、クリス。ちょっと驚いただけよ、ねぇ?」
「??……そうか……。ところで、そちらは見ない顔だが」
「ええ、ここに新しくお店を開くことになったの。名前はホルテスVII世、札職人よ」
紹介を受け、クリスは礼儀にのっとって異国の少年に片手を差し出した。
「ゼクセン騎士団長のクリス・ライトフェローです。よろしく」
だがホルテスVII世は握手のために出された手を、両手で握り返した。頭ひとつ背の高いクリスを見上げ、真顔で言い放つ。
「これは美しい。余の妻にならぬか?」
言われた本人は目を点にして硬直している。
降りる沈黙。凍りつく空気。
だがそれを破る声が上がった。
「―――駄目だっ!!」
その場の視線が集まった先には、自分の口を押さえているヒューゴの姿があった。
ホルテスVII世が心外だと言わんばかりに顔を顰める。
「なぜそちが断るのだ?」
「え……あ……」
ヒューゴはしどろもどろになって目を泳がせた。
なぜと言われても……どうしてなのだろう。自分が思わず叫んだ言葉に自分で驚いている。
注目されていたたまれない気分でクリスを盗み見れば、不思議そうに、けれど興味深げに首を傾げ言葉でなしに問いかけてくる。顔に、頭に全身の血が上ってしまったのではないかと思えた。
「く、クリスさんは、ゼクセンの人だから……ゼクセンだって、結婚できる相手はひとりだけだよね!クリスさん!」
どうにか捻り出した理屈に、気圧されたようにクリスが頷く。
「あ……ああ、まぁ。それはそうだけど……?」
「で、クリスの返事はどうなのかしら?」
完全にこの状況を面白がっているのだろう、楽しそうな口調でジーンが尋ねる。今度は自分に視線が集中し、クリスはかすかな溜息をついた。
「すまないが、私はそういう冗談はあまり得意ではないんだ。他をあたってくれ」
この話は終わりとばかりにクリスはジーンに封印球をいくつか渡し、ヒューゴを呼んだ。
「シーザーが会議の召集をかけていたわ。そろそろ時間だから一緒に行こう」
「あ……うん」
ヒューゴは先に出て行ったクリスを小走りに追いかけて店の外に出た。彼女はちらりと振り返り、また視線を戻して歩く速度を落とす。追いつきやすいようにとの心遣いがふわりとヒューゴの胸を暖めた。
背筋をきれいに伸ばし、よどみのない歩調で足を運ぶ姿に、いつも目を奪われる。
「……放っといていいの?」
クリスは隣に並んだ少年に、口の端を上げて見せた。
「あれが冗談でなければ、考えるんだがな」
……十中八九、冗談ではないだろう。ヒューゴはしょんぼりと肩を落としていたホルテスVII世が少し気の毒になった。
「クリスさんだったら、結婚を申し込む人だっていっぱいいるだろ。もう誰か決まった人がいるんじゃないの?」
「いや、実はいないんだ」
意外な言葉に目を丸くするヒューゴの様子に、クリスは苦笑した。
「ゼクセンでは普通女は剣を振るわない。こんな職に就いているものだから、男の方が近寄ってこないのさ。しかし私の取り柄といえば剣の腕くらいしかなくてね。どうもわたしは女の魅力というものには欠けているらしい」
「そんなこと……」
いくらなんでもそれはないだろう。
あれだけあからさまに彼女に想いを寄せているだろう男たちが周囲にいるのに、これっぽっちも気づいていないのだろうか。
だがクリスは渋い表情になって続けた。
「本当のことさ。料理はできないし家事全般苦手だ。およそ女の子がするような習い事もことごとく無残な結果が出ている。こんなに可愛げがないのでは、周りには女とは思われていないだろうよ。……さすがに、デュパ殿に女装の鬼神と言われたときには情けなくてたまらなかったが」
「…………」
返す言葉も見つからないのでヒューゴはとりあえず黙っていることにした。
女の魅力云々は置いておくとしても、それにしたってクリスは鈍い、と思う。
先程の様子を考えれば、ムードを盛り上げて恋の告白をしようが結婚を申し込もうが、彼女が気づかないか冗談だと思われるだけなのではないか。周囲の男性たちにはまったく気の毒な話だ。
ヒューゴはさっきからちらちらと物陰から感じる視線の主たちを思って、ひそかな同情を禁じえなかった。とはいえ、クリスに対する求婚者の数が少ないのも、いまいち本気に取れないでいるのも、彼女だけの責任ではなさそうな気がする。おそらく彼らの牽制の結果であろう。
この人を妻にするなんて、三人もの妻を娶るより難しいのではないだろうか。
「まあ、今では真の紋章なんてものまであるしな。私を妻にしようなんて思うのはよほど奇特な男だろう」
冗談めかしておきながら、かすかに混じる声の硬さ。
女であるということは、この人にとってどういう意味を持つのだろう。
クリスは美貌と才覚と名声を持った稀有な女性だ。なのに窮屈そうな影が見えるのはきっと気のせいではない。
もっと器用に立ち回る術だってあるだろうに。
思ったら、すんなりと言葉が出た。
「クリスさんは可愛いよ」
きれいで、すごく強いくせに、どこか鈍いところも。ヒューゴよりもずっと大人なくせに、妙に不器用なところも。
こんな風に自分を悩ませるところも。
ヒューゴの知っている女性らしさには確かに欠けるところも多いけれど。イライラするし、ドキドキするし、困ってしまうことも多いのだけれど。全部をひっくるめても。
クリスはびっくりしたのか足を止め、目を瞠っていた。やがてじわじわと頬に赤みが増してきたかと思うと、ふいと向きを戻して歩き出した。さっきよりも少し早足で。
「……お世辞を言っても何も出ないぞ」
「違うって。本当にそう思ったんだ」
彼女に想いを寄せる男たちはみんな知っているのかもしれない。でもなんとなく、知っていることが秘密めいて嬉しかった。
「だからさ、これから『奇特な男』がきっといっぱい出てくるよ」
わざと冗談めかして言えば、彼女もふと表情を緩める。
「そうか……では料理の練習でもしておいた方がいいかもしれないな」
本気と冗談の危ういバランス。めまぐるしいスピードで体内を巡る血液が危険を告げていた。
分かっていても、ヒューゴはもう逃げ出せないところまで来ていた。
悔しかった。彼女を敵だと、許せないと思う気持ちは消せないのに、そんなことお構いなしに勝手に心臓が跳ね回る。
「上手くできたら試食に付き合ってもらうからね」
悔しくて悔しくて、他にどうしようもなくて、ヒューゴは笑った。
「楽しみにしてるよ」
思えばこの口約束が互いに大きな試練を与えることになるのだけれど、それはまだ未来の話……
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