ティアドロップ



 
 
 


 あの日以来、私は泣いた覚えがない。
 どうして父が帰ってこないのかと問い詰めては執事を困らせた幼い日。
 グラスランド方面へ馬を向けて以来行方不明になった父。死んだとは限らないと、それだけの希望に縋って手がかりを探しつづけてきた。
 泣いている暇などなかった。それよりは強くなるべきだった。彼がどんなところにいても助け出せるように。
 いいや、本当は……生きているなんて、本気で信じてはいなかった。ほんの小さな、蝋燭の灯りのような希望でしかなかった……あの時までは。
 けれど再会したとき、彼は私の知らない世界の住人になっていた。馴染みのない衣装に身を包み、褐色に焼けた肌をして。
 父だと分かったときには彼は既に死の淵に立っていた。
 大して言葉を交わすわけでもなく。
 私は彼の紋章を受け継ぎ、彼は死んだ。遺体も残らなかった。
 私は泣かなかった。泣き方を思い出すこともできなかった。
 真の紋章……それが彼の形見だなんて。
 こんなものが欲しかったわけじゃなかったのに。


 ……父さん、貴方は残酷な人ですね。



◆◆◆




 どん、と何かがぶつかる音が聞こえ、ヒューゴははっとした。古びた本を机の上に開いたままうとうとしていたらしい。
 城に突っ込んだ形になっている船に並んだ、それなりに上等な船室。本来なら『炎の運び手』と呼ばれる対ハルモニア軍の頭領であるヒューゴは、この城でいちばん上等の部屋を割り当てられているのだが、ヒューゴはなんとなく天蓋付の瀟洒なベッドが落ち着かず、城主のトーマスへの気兼ねもあって、この部屋に寝泊りすることが多かった。
 背後の扉を振り返ると、その扉を今度はでしでし、と億劫そうに叩く音がした。
「……誰だ?」
 一体何事かと警戒しながら声をかける。
「わたしだ」
 ヒューゴがくぐもった返答にぎょっとして、扉に駆け寄り引き開けた途端、崩れるように人間が倒れかかってきた。
 咄嗟に支えようとはしたものの、相手の背が自分より高かったこともあってヒューゴはバランスを崩し、もつれ合うように後ろに倒れこんだ。幸いそこにはベッドがあったので衝撃は軽かったが、ヒューゴを余計に慌てさせることになった。
「く……クリスさん!?」
 肩口に長い白銀の髪がかかり、濃いアルコールの匂いがした。
 のしかかってくる温かく柔らかい身体。ヒューゴは真っ赤になってそこから逃れようと身を捩った。クリスをごろんと横に転がし、その隙に起き上がって距離をとる。
「クリスさん、酔ってるの!?」
「酔ってる。見てのとおりよ」
 それはもう、呂律も怪しいくらいには立派な酔っぷりである。
 見ての通りと言われて思わずクリスの顔を覗き込んだヒューゴは、たちまち後悔してくるりと背を向けた。クリスの頬は酒のために朱に染められ、結い上げられた髪の数本が乱れてかかっている。瞳もとろりと潤んでいるし、いつもの鎧姿ではない色の濃い上着の胸元は、火照って暑いのか少し開いていた。心構えもなく見るには目の毒以外のなにものでもなかった。
 この人酒に弱かったんだ、と意外に思いながらもクリスの腕をとって引っ張り起こそうとするが、彼女にその意志はまったくないようだった。
「ヒューゴ……許してくれないか?」
「えっ……」
 ぎくりとした。
 夕闇に燃え上がる村が、倒れ伏す少年の姿が思考をよぎる。
「許す……って、」
 褐色の手がシーツを握り締める。クリスが長い銀の睫毛を伏せ、ヒューゴの心臓がきり、と痛む。

「実は今すごく眠いんだ。ここで寝ることを許してもらえないだろうか」

 ―――頭の中が真っ白になった。
「だ、ダメに決まってるだろっ!あんたは一応女で、ここは男の部屋なんだぞ!」
「襲ったりしないから安心しろ」
 それはあんたが言うセリフじゃないだろ。ヒューゴは頭痛を覚え額を押さえた。こんな酔っ払い相手に一瞬真剣になっていた自分が情けない。
「クリスさんの部屋はすぐ隣なんだから、帰ればいいじゃないか。歩けないなら支えてあげるからさ」
「いやだ、帰りたくない。面倒くさい。それに帰ったら絶対ルイスに叱られる」
 ゼクセン騎士の猛者どもを束ねる騎士団長とも思えないような子供じみた駄々をこねるクリスに、ヒューゴは途方にくれてしまった。
「弱いんだったらそんなに飲まなきゃいいのに」
 クリスは恨めしそうにヒューゴを見上げた。
「……飲ませたのはルシアだ……」
「…………」
 部屋の主が黙ってしまったのをいいことにクリスは枕を引き寄せた。
 負けじと、彼女が眠り込もうとするのをなんとか防ぐためにヒューゴは他愛のない話で興味を引こうとした。
「クリスさん、ナディールさんが一度舞台に立ってくれって言ってたけど?」
「…………」
「クリスさん、壁新聞の連載終わったんだって。知ってた?」
「…………」
「クリスさん、そのピアスいつもしてるけどお気に入りなんだ?」
「……昔、父がくれたんだ」
 ヒューゴはいったん口を噤み、躊躇ってから、気になっていたことを訊くことにした。クリスだって、いくらなんでもこの話題は無視できないだろうと思って。
「クリスさん、なんでジンバの葬式に来なかったの」
「ん?」
 案の定、クリスは落ちかけた瞼をもう一度上げた。
 ジンバの葬儀は城の一角でカラヤ式に執り行われた。カラヤの村の者たちは、彼を村の一員として惜しみ悼んだ。
 良い奴だった。頼りになる、気の好い男だった。思い出がぽつりぽつりと語られるたび、彼を失った悲しみが皆の胸を瞼を覆っていった。
「私がカラヤの葬儀に参列することを、あなたがたはあまり好まないからな」
「それは……でも、ジンバはあなたのお父さんなんだろう?」
「父さん?」
 昏い嗤いを含んで響いた言葉をヒューゴは信じられない思いで聞いた。
「父なんかじゃない。あの男は、カラヤの男だ。ジンバという名の私の知らない男だ」
「クリスさん……!」
 上げかけた抗議の声をクリスの呟きが遮る。
「わからなかったんだ、私は」
「え?」
「あの男が自分の父親だなんて、この紋章を受け継ぐまでこれっぽっちも気づかなかった」
 父の軌跡を追うように騎士にまでなった。カラヤの村で彼が命を落としたのかと思えば復讐心に燃えた。それなのに。
「あんなに恋しかったのに、あんなに逢いたかったのに、いざ顔を合わせてみれば彼は名乗りもせず、私は気づきもしなかった。これが父娘……笑ってしまうだろう?馬鹿な男だ、こんな娘に真の紋章を託すだなんて」
「クリスさん!そんな言い方ないだろ!気づかなかったのは仕方がないよ……クリスさんのせいじゃないし、ジンバだって……」
 クリスは重そうに自分の右手を投げ出した。
「父に会って、こんなものが欲しかったんじゃない」
 ヒューゴは言葉に詰まった。
 シンダルの遺跡の奥で明かされた真実は衝撃的だった。ジンバが彼女の実の父親だったらしいということ。ヒューゴが知る限り彼の死にクリスは痛ましい表情をしてはいたものの、泣くようなことは一切なかった。
 けれどそれは彼女が傷つかなかったということではないのだと、改めて思い知らされた気がした。
「あの男は……本当に私がこれを継ぐのにふさわしいと思ったのだろうか?」
 あたりまえだと言うのは簡単だが、ヒューゴは口に出すことができなかった。自分に軽々しく答えが出せるような問題だとは思えなかった。
 クリスは答えが返ることを待つでもなく、右手をぼんやりと見つめている。
「ユンが……」
 揺れる声で紡がれた名が、アルマ・キナンの口寄せの子と呼ばれた少女の名だということをヒューゴは知らなかったが、特別な感情が込められていることは感じられた。
「なぜだろう?あの娘は私を優しいと言ったんだ……どうしてそんなことが言えたんだろう。私の手が血にまみれていることを知っていただろうに……私には、死を目前にしてそんなことを笑って言えるあの娘の気持ちがわからない。ずっと……帰ってきてもくれなかったくせに、こんな大層な紋章を継がせる気になったあの男の気持ちもわからない」
 だらりとしていた右手に力が篭り、拳の形を作った。
「なあ、ヒューゴ……私はそんなことをしてもらえるほどの人間なのか?」
 突然名を呼ばれ、見つめ返される。熱を孕んで潤んだ紫の瞳に、ヒューゴはどぎまぎしながら視線を外した。
「そんなこと……俺に言われたって」
「どうして?あなたは私の命の価値をよく知っているはずでしょう」
 クリスはごろりと横に転がり、ヒューゴに近づくと肩を起こした。
「私の命ひとつでどれだけのものが贖えるの?私が殺したあなたの友は?私が焼いたあなたの村は?私が守りたいと願う人々の平和は?」
 口元を彩るのは笑みに似ていたが、どこか虚ろだった。ヒューゴは息苦しさを感じて逃げ出したくなった。
「やめろよ。そんな言い方……クリスさんらしくないよ」
「私らしいって……なに?」
 すうっと血が下がる感覚。
 言ってはいけないことを言ってしまったのかもしれなかった。クリスの顔からは一切の表情が失せ、生気のない唇だけが動いた。
「私がゼクセン騎士だということ?予言された者だということ?あの人の血の繋がった娘だったらそれで良いの?私自身には、こんなにも……何もないというのに……」
 ヒューゴは絶句した。これが、この人の語る言葉だとは思えなかった。
 強く、美しく、凛とした姿で立つ「白き乙女」ともあろう人が。
 いつだったか英雄などというものは幻に過ぎないと言い切った、それでも少しもその存在は薄れないように見えた人が。
「あの少年を殺してまで生き延びる価値が私にあったの?ユンが短い生涯の最後に私を望んでくれるほどの価値が……父が命を賭けて真の紋章を託そうと思うほどの価値が……」
「やめろよ!!」
 耐えられなくなってヒューゴは叫んだ。急に腹の底から強い怒りが湧き上がる。
「じゃあ死ねばよかったって言うのか?クリスさんは死にたかったの?そんなのおかしいよ!今更そんなこと言うのは卑怯だ!!」
 感情に抑えが利かず、ヒューゴはクリスの襟を掴んで引き倒した。仰向いた拍子に肩をベッドに押し付けられ、紫の瞳が驚愕に見開かれる。
「クリスさんは生きたいんだろ?生きていくために戦っているんだろ?生きたいって思うから、だから命には意味があるんだろ!!あんたの命に価値がなかったら、ルルが死んだのはなんだったんだよ!?」
 獣が噛みつくような熱い激情の波が押し寄せる。
 許せなかった。あの炎の中で、駆け抜ける戦場で、今この城内で……こんなにも心を乱されるほどの存在を灼きつけておきながら、ただ生きるということにすら迷いを見せるなど。
「なあ、クリスさんは生きたいんだろ?自分が生きていたかったから、だからルルを殺したんだろ?もし、違うなんて言ってみろ……俺が今ここであんたを殺してやる!」
 痛いほど張り詰めた空気に、乱れた呼吸が響く。
 表情の抜け落ちた顔で、クリスは長い間自分を押さえつけた少年を凝視していた。
「私は…………」
 やがて、聞き取れるか取れないかの掠れた声が沈黙の中に落とされた。
 銀の長い睫毛がゆっくりと伏せられる。
「…………生きたい………」
 白い肌を滑ったほんの一粒の雫。それがひどく美しくて目を奪われた。
 もう一度開かれた瞳には確かな生気が宿っている。
 クリスが身じろぎ、ヒューゴは我に返った。気がつけば掴まれていた彼女の襟は大きく開いて、胸もとに陰が見えている。
「ご、ごめん……俺……」
 かあっと頬が熱くなり慌てて手を離したのだが、クリスは大して気にした様子もなく、右手を浮かせて目の前にかざした。
「私は……この手でたくさんの命を奪ってきた。その罪を背負って生きてゆくのだと……それが人々を守るために必要なことなのだからと、騎士になったときから覚悟はしていたんだ。だけど……こんな罪深い私が生きたいと願うことなど許されないと思っていた……」
「クリスさん……」
 彼女を知る前ならば、ルルを殺されてすぐの時ならば、彼女の言葉にそれが当然だと思いもしただろう。自分の村と親友を奪っておいて、のうのうと生きのびることなど許されないと―――傲然と言い放つこともできただろう。でも―――今は。
 この人を前にすると、いつもいろんな感情がないまぜになって渦を巻く。どうすれば伝わるのかわからないから、ただ浮かんだ言葉をそのまま言うことにした。
「ねえクリスさん、前に俺の剣となり盾となるって言ってくれたよね。俺さ、けっこう当てにしているんだよそれ。クリスさんって時々でたらめじゃないかと思うくらい強いし」
「人を化け物みたいに言うな」
 憮然とした様子の彼女に、軽く声を立てて笑った。
「だからさ……死なないでよ」
 自分から彼女に贈るには、少し変な言葉かもしれないけれど、本当の気持ちだ。
 面食らったようにヒューゴを見上げていたクリスだったが、やがてああそうか、と呟いた。
「私は……ただ、生きていて欲しかったんだ。父さんに」
 死なないで。生きていて。私の傍にいて。ほんのそれだけの純粋でわがままな気持ちを、許して欲しかった。
「ユンだって……いい娘だった。生きていて欲しかった。……ルルだって……まだ幼かったのに。あんなところで死ぬべきじゃなかった……みんな、ずるいな。こんなに私の心を抉っておいて、何も訊けないうちに手の届かないところにいってしまった……」
 唇は笑みを形作る。それはとても寂しそうな透き通った笑みだったけれど、とてもきれいだとヒューゴは思った。
 褐色の右手に、白く細い指が重なる。けれどその手の平は長年剣を振るってきた証なのか皮膚が硬くなっていた。
「ヒューゴ、私はあなたの剣となり、盾となり、あなたを守る……」
 胸が痛くて、心臓がうるさくて、振り払って部屋から飛び出してしまいたかったけれど、なにかに押さえつけられたように自分の手はびくともしなかった。
「だから、あなたはいなくならないでね?」
 ヒューゴは泣きたいような気持ちで頷いた。
 ああ、どうしてこの人はこんなにも強くて、脆くて。
 嬉しいのか、悔しいのか、それとも哀しいのか。よくわからない。
 酔っているんだ、この人は。だからこんなことを言う。
 まるで酔いを移されたようにくらくらした。
「クリスさん、帰らないとルイスが心配するよ……まだ眠いの?」
「……うん、眠い。ルシアはザルだな……実を言うと父さんのことを訊きにいったんだが」
 飲み負かされて終わったわけだ。
「母さん……」
 ヒューゴは渋い顔をして肩を落とした。
「この部屋使っていいよ」
「そうか。すまないな」
 ヒューゴはそっとクリスの手を外すと、ベッドの端にたたまれていた毛布を肩にかけてやった。その拍子に、揺れた銀の髪の合間からピアスが光る。
 こういう形の装飾を、確かティアドロップというんだっけ。まるで彼女が落としたほんの一粒の涙のような。
 小さく寝息を立てる彼女の邪魔をしないように、静かに部屋を出る。しかたがないから今夜はあの部屋は譲ってやろう。
 どうせ自分だって、とても眠れるような気分ではないから。
 湖を渡ってくる冷たい風を全身に浴びるために、ヒューゴは甲板に上がっていった。


 
 
 


 
 



 
クリスの水の紋章継承後です…。
二人がこんな話してたらいいなぁなんて…してるわきゃないね(爆)
しかもお互い見事に論点ずれてるし。
雫形の装飾をティアドロップと言いますけど、命名した人はすごいなあ。
別にレインドロップとかでもよかっただろうに「涙の雫」だもんね。素晴らしいセンスだ。

 
 

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