チシャ・クランは、この日大層な盛り上がりようであった。
クランにはしばらく前からエミリーという少女が滞在していたが、彼女に炎の英雄の後継である少年ヒューゴが話しかけたのが事の発端。エミリーは新米の英雄に向かって「腕相撲で自分に勝ったら仲間になる」と宣言した挙句、彼を打ち負かしてしまうほどの豪腕の持ち主であった。
以来、ヒューゴはめげずに何度か勝負を挑みに行っているのだが、いつの間にやら湖の城に集った仲間たちが面白がって参加し始め、今日になってなぜかトーナメント大会を開こうという話にまでなってしまったのだった。
広場には腕相撲のために机が用意され、周囲にはわざわざビュッデヒュッケ城からやってきた参加者や野次馬、それにチシャの村人たちが集まっていた。
ヒューゴは呆れた体でこの騒ぎを見ていた。自分が口を挟む間もなく、既にトーナメント表まで組まれている。
「ヒューゴ!俺はおまえに賭けたんだからな、優勝したら奢ってやるぜ。負けたらおまえが奢れよ!」
「勝手に賭けるなっ!!」
同郷の者に肩を叩かれ、ヒューゴは怒鳴り返した。
参加するなどと言った覚えもないのにきっちり参加者の欄に名前が書かれているが、どうやらそれは自分だけではないらしかった。後方から苦々しい呟きが聞こえてくる。
「いつの間に私まで参加することになっていたんだ……?」
女性にしては硬質の声にどきりとして振り返ると、ゼクセン名物の銀髪の女騎士と彼女の部下である大柄な騎士が並んで立っていた。いつもの鉄の鎧は着ておらず、二人とも軽い普段着のままだった。
銀の睫毛に彩られた菫色の瞳が上がり、視線がぶつかる。一瞬の間に血が逆流するような気がしてヒューゴは慌てて目を逸らした。できれば何事もなかったことにしてしまいたかったのに、お目付け役のダック戦士が許してくれなかった。
「よう、ゼクセンの『誉れ高き六騎士』からも参加かい」
お互いの距離が近づき、ヒューゴは赤くなった顔に気づかれるのではないかと気が気ではなかった。
「レオが参加すると言うから見物に来ただけなのに、知らないうちに名前が書かれている」
クリスが憮然としてトーナメント表を指すと、ジョー軍曹は丸い腹を揺すって笑った。
「期待されているんだろ、騎士団長さん。あんたはまあ滅法強いって噂だしな。見ろよ、優勝候補に挙がっているぜ」
「剣の勝負ならやりようもあるが、腕力だけであの面子相手にどうしろと言うのだ!?」
確かに、トーナメント表にはヒューゴのように面白半分で勝手に参加させられた者やら、お祭り好きが便乗した者やら色々いるが、レオやハレックのような力自慢だってちゃんといる。レオの筋肉の盛り上がった太い腕を見て、ヒューゴは思わず自分の腕を見比べてしまった。
「そ、それでは第1回戦を始めまーす!該当する方は出てきてください!」
司会進行役はなぜかビュッデヒュッケ城のトーマスだ。
参加者、野次馬入り乱れて机の周囲を取り囲む中から、エミリーと気合入りまくりのフレッド・マクシミリアンが進み出てきた。
「フレッドさまー!がんばってくださーい!!」
後方からはリコの声が飛ぶ。
盛り上がる会場にげんなりした様子で、クリスは「ここまで来たのだからサナ殿に挨拶してくる」とレオに言い置いて広場を後にした。
流れる銀髪を目が勝手に追ってしまう。すらりとした後姿が群集の向こうに消えた後ようやく緊張が解け、ヒューゴは詰まっていた息を吐き出した。
羽毛に覆われた大きな手が背中を叩く。
「……お年頃だな、ヒューゴ」
「な、なに言ってるんだよ軍曹!べ、別に俺はクリスさんのことが好きだとか気になるとかそんなこと全然思っていないってば!!」
一所懸命叫んではみたものの。
返ってきたのは若者を見守る先人たちの慈愛に満ちた微笑だった。
「ヒューゴは本当に嘘つくのが下手だなぁ」
「ほほお、クリス様をねえ。そういうこととは……」
身長差の激しい二人は勝手に納得して頷き合っている。なんとか反論してやろうとヒューゴが口を開いたとき、周囲にどよめきが起きた。
広場の真ん中では、机を囲んで審判のトーマスが勝負ありの手を上げ、エミリーがガッツポーズを決め、フレッドが悔しさに吠える、という光景が繰り広げられていた。
「や、やっぱり……強いな、エミリー」
思わず感心して見ていると、脇をどかどかとフレッドが通り過ぎた。是非とも仲間にしておきたい怪力少女だがなかなかに難しそうである。ギャラリーから飛ぶ言いたい放題の野次がヒューゴの気持ちを曇らせた。
元来が負けず嫌いのヒューゴとしては、できることなら勝ちたいと思うのだ。相手は年下の女の子なのだからなおさら。
「第2回戦の方ー!出てきてくださーい!」
「ほらヒューゴ、行って来い!」
ジョー軍曹に背を張り飛ばされ、ヒューゴはよろめきながら広場に進み出た。途端、周囲に歓声が沸く。異様な盛り上がり方にうんざりしつつ前を向けばそこには対戦相手の男が立っていた。ビュッデヒュッケ城の倉庫番、ムトである。
「うわあ!ヒューゴさんと対戦なんて、き、緊張しちゃうよぉ〜」
と身をちぢこませる大柄なコボルト。炎の英雄なんて大層な肩書きを持ってはいても、仲間に集った屈強な戦士たちからしてみれば自分はまだほんの小さな子供なのに。ヒューゴは苦笑して机に歩み寄った。
トーマスの掛け声と共に力比べが始まる。
少々頼りないところはあっても、ムトだって毎日重い荷物を抱えて出し入れする倉庫番だ。合わせた手は大きくて力強かった。
いざ勝負が始まってしまえばヒューゴはそれに没頭してしまう性格だった。観衆の視線も野次も忘れて相手の目を見据え、筋肉を張り詰める。
互いの力が拮抗し、しばらくの睨み合いが続いた。数十秒が経過した頃、じりじりと獣毛に覆われた腕が傾いてきた。
「うううぅ……も、もうダメ〜」
情けない声が上がり、がくんと抵抗が消えた。
「すごいなあ、ヒューゴさん。やっぱり敵わないや」
消えていた周囲の音が聞こえ始める。ヒューゴは照れ隠しに少し笑って、急いで広場から逃げ出した。
ジョー軍曹の許に駆け寄ろうとしたとき、その隣に背の高い女が立っていてぎくりとした。クリスが戻ってきていたのだ。
「お疲れ様、ヒューゴ。さすがだな」
微笑みを形作るきれいな薄紅の唇に目を奪われていたヒューゴは、その言葉にはっとして、決まり悪さに思わず目を逸らした。
「べ、別に……」
返事もぶっきらぼうになってしまい、ちらりとクリスの顔を盗み見ると微笑は諦めの混じった苦笑に変わっていて、後悔の波が押し寄せた。
ああ、俺ってバカ……。
内心で頭を抱えているヒューゴの肩をジョー軍曹が押した。
「ほれ、おまえもサナ様に挨拶して来い。炎の英雄は今のカラヤの顔でもあるんだから、礼を失するなよ」
「うん……」
沈んだ心持でヒューゴは村の奥へ向かった。クリスの視線が自分を追ってきているような気がしていたたまれず、小走りになる。
白い壁の円筒形の建物に飛び込んで地下に潜ったが、サナの姿は見当たらなかった。ひと通り尋ねまわって、地下の一室でようやく辿り着いた。
サナは静かにヒューゴの来訪を歓迎した。この妙な騒ぎもたまには活気づいて良いでしょう、とそれなりに楽しんでいるようだ。彼女の凪いだ瞳には、胸にくすぶっているクリスに対する微妙な感情がすべて見透かされてしまう気がして落ち着かない。
略式の挨拶を済ませて地上に戻ってみると、なぜだかわらわらと自分に向かって人が集まってきた。
「あー!こんなところにいた!!」
「え?な、何??」
「出番ですよ出番!ほらほらヒューゴ殿、急いで!」
逃げ腰になりかけたところに、すかさず腕を取られ急かされる。群集をかきわけて、ヒューゴは広場の真ん中に放り出された。
勝負のために据えられた机、その向こうに立っている対戦相手を見て、ぽかんと立ち尽くしてしまう。
「く……クリスさん……!?」
クリスもクリスで、なんとも言えない困ったような顔をしている。
改めて対戦表を確かめてみれば、彼女はこの前にダック戦士のレットと対戦して勝ち進んできたらしかった。
「それでははじめまーす!双方、位置についてください!」
どうにか司会が板についてきたトーマスの手が挙がる。
仕方がないな、と言わんばかりにクリスが小さく肩を竦め、机に腕を置いた。ヒューゴもここまで来たら逆らいようがなく、おずおずと腕を出す。
手が重なるとヒューゴの心臓は破裂しそうに高鳴った。白い手はいつもの手袋には覆われておらず、掌は武人らしく硬く鍛えられているが細くてきれいな指をしている。自分のものとそう大きさは変わらない、意外にも小さな、女の手だ。
開始の掛け声が響き、ぐんと腕に負荷がかかった。
―――つ、強い!この人……!
ヒューゴははっとして慌てて筋肉を張り詰めた。
一度圧されてしまうと戻すには倍の力が要る。歯を食いしばってじりじりと傾きかけた腕を押し戻そうとするが、ほんの少しの角度が果てしなく遠く思えた。
負けず嫌いに火がついて、ヒューゴは腹に力を込めた。なにぶんにも相手は女性だ。ゼクセンの白き英雄と呼ばれるような猛者であっても腕力だけならこちらにだって分があるかもしれない。それにさっき褒められたのも本当は嬉しかった。クリスに感心されることは、相当に気分の良いことだ。
勝ってやるぞ!と気合を入れ直すと、腕の角度が僅かずつだが戻り始めた。
腕相撲は腕力だけではなく、気迫の勝負だ。自信がついたヒューゴは気力を込めて相手の目を見ようとした。
菫色の瞳とまともに視線がぶつかり合う。強い光を宿したその瞳を切れ長の瞼と銀の睫毛が彩り、吸い込まれてしまいそうなほどに美しかった。
戦場で死の際を駆け抜ける瞳。普段自分を見るときには戸惑いに曇ることが多かったために、クリスのこんな切れ味の鋭い視線は受けたことがなかった。ヒューゴはぎくりとして背筋を凍らせた。戦場で彼女と相対した者はもっと何倍も鋭い、容赦のない視線を浴びることになるのだろう。
力が抜けそうになって、ヒューゴはどうにか目をずらすことに成功した。あんな瞳をまともに見続けていたら、心臓に悪い。
視界が下にずれて、クリスの口元を映し出す。
形の良い薄紅色の唇。きりっと引き結ばれている様はどちらかというと男性的だ。けれどふわりと丸みを帯びた艶やかさは、触れれば瑞々しく柔らかそうで。
くちづければきっととろけるように甘やかな。
―――って、なに考えているんだよ、俺!!そんな場合じゃないだろ!
ヒューゴは慌てて目を瞑り、小さく頭を振って不届きな考えを追い払った。
クリスが微かに怪訝そうな顔をする。こんなことを考えているなんて知れたら、メイミの作るプリンに頭を突っ込んで窒息して死ぬしかない。
釘付けされてしまった視線を引き剥がし、ヒューゴは更に下方に目をずらした。不幸なことには、そのとき丁度ずれてしまった肘の位置を戻そうとクリスが身を乗り出したのだった。
チシャ・クランが比較的涼しい地方にあるとは言っても、夏の盛りには短い期間でも気温の高い日だってある。クリスが今日鎧ではなく簡易な平服を着ており、襟元をいつもよりちょっとだけ大きめに開いていたって仕方のないことではあったろう。
ただ、不幸な偶然が少年の目をきわどい角度に置いてしまっただけのことで。
「…………!!!」
思考が真っ白になって、身体中の血が沸騰する。
途端、世界がぐらりと傾いた。
脳天から衝撃が全身を伝い、目の前が赤く塗りつぶされ、ヒューゴはわけが分からないままに地面に叩きつけられた。
一瞬意識が遠くなる。
「ヒューゴ!!大丈夫か!?」
頭上から慌てふためいたクリスの声が降ってきた。
「すまない、おまえが急に力を抜くから勢い余ってしまって……」
ヒューゴはなんとか大丈夫、と答えようとしたのだが、ぐらぐらと揺れる意識の中ではそれもままならない。机が横倒しに転がっているところを見ると、結構な勢いで倒れこんでぶつかったようだった。
クリスはヒューゴを抱え起こしたが、顔を覗き込んで青くなった。
「うわっ、鼻血が!誰かタオルを……!」
大騒ぎになって人が集まってくる。ヒューゴは自分で立てると言おうとしたが、顔に布を押し当てられたかと思うとぐいっと引っ張られて足元が浮いた。
額に落ちかかってきたのは長くまっすぐな銀の髪。
「!!?」
ヒューゴは絶句した。なにしろ自分を横抱きに抱え上げていたのはゼクセンの銀の乙女、ことクリスだったのだから。
「く、クリスさん!!降ろしてくれよ!」
「うるさい、暴れるな!おとなしくしていなさい!」
とんでもない状況に身を捩ったヒューゴだったが、クリスに一喝されて動きを封じられた。
これではあまりに情けない。今すぐ飛び降りて自分の足で走りたいところだったが、心配のあまりかクリスの鬼気迫った表情を見ると何も言えなかった。
そして結局、クリスは後の対戦を棄権し、エミリーはどうにか仲間になったらしい。
炎の英雄は銀の乙女にKO負けした、ということで、彼女の武勇伝に更なる華を添えることになったようだ。
数日の間は、ヒューゴの落ち込みようといったらなかった。
「絶対……!絶対クリスさんに勝ってやる!いつか絶対お姫様抱っこしてやるぅぅ!!」
以来、ビュッデヒュッケ城では猛然と腕立て伏せする炎の英雄が見られたとか。
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