やさしく殺して
一面の紅を夜毎に思い出す。 何もかもを焼き尽くす炎の紅。切っ先を走る血液の紅。 あなたの吐き出す怒りと悲しみの色。 夜毎に繰り返し。 あなたの腕が。瞳が。声が――― あなたの紅が、夜毎わたしを焼き尽くす。 この行為は、苦手だ。 柔らかなくちづけを唇に受けながら、クリスは眉を寄せた。 薄く開いた瞼から覗いてみると、うっとりと閉じられた金の睫毛が目の前にある。 くちづけなど許した覚えはなかった。艶めいた話をしていたつもりもない。猫が薄く開いた扉の間をすりぬけるように、ヒューゴはするりと一瞬の間に近づいてきた。 警戒が足りなかった。彼に唇を奪われて、その度にいつも思う。 なまじ殺気がないから簡単に接近させてしまう。いや、むしろはじめに近づいたのは自分だったか。ヒューゴの気安い雰囲気に油断してなんだかいらないことを色々話してしまったような気もするし、そういえば始めは自分が机に、彼はソファに座っていたはずなのに、今や腕を伸ばせばすぐに届く距離にいる。 これがクリスの命を狙う輩だったらどうするのだろう。 ゼクセンとの和議に反対する血気に逸ったグラスランド諸民族の刺客だとか。 真なる水の紋章を狙ってきたハルモニアの刺客だとか。 クリスを手っ取り早く失脚させようとする評議会議員の刺客だとか。 心当たりならいくらでもありすぎるほどあって、キリがない。まさかヒューゴがそういう輩だと思っているわけではないが、それにしたって警戒が足りなすぎるのではないか。 心から信頼していると言ったって、騎士団の男たちが身を寄せてくれば身体は自然に距離を置こうとするというのに。 つらつらとそんなことを考えていたら、いつのまにか開かれた翡翠の瞳がまっすぐに見つめてきていて、ぎくりとした。 「クリスさん、何考えてるの」 「……なにも」 あるいは、彼に警戒を抱きづらいのは彼が年下だからだろうか。 彼は自分よりも更に若い。その少年らしい真摯さと率直さとむき出しの感情を眩しくも恐ろしくも感じたことはあっても、恋だの愛だのを語る相手になるなんてはじめは思ってもみなかった。 けれど翡翠の瞳に燃えるのは無垢な子供にはありえない情欲の炎で。いざ手を伸ばされれば肩が勝手に震えてしまう。 「やっぱり……ダメ?」 「だ、ダメではない……けど……」 そんな目で訴えないでほしい。 自分が鈍いということは知っているけれど、何を求められているか分からないほどではないのだ。 「けど……?」 焦れた色が声ににじみ、クリスは唇を噛んだ。 あなたはずるい。ひとを油断させておいて、うかうかと近づいたところで牙をむく。 この行為は、苦手だ。 身体ばかりか心まで裸にされてしまうようで。鎧をまとわぬ身体は、彼の前には本当に無防備だった。 今までにもほんの数度、彼と身体を重ねたことはある。しかしあまりにも緊張しすぎていて何がどうなったのかよく覚えていない。 どうしてこの少年は解ってくれないのだろう。何度でもごねるクリスに、ヒューゴはよくつきあってくれているとは思う。だがきっと男には解らないのだ。こんな、まるで鋭い剣を胸に突きつけられたような戦慄きは。 クリスは急に目の前の男が憎たらしくなって、行き場を失っている褐色の手をがっしり掴むと有無を言わせず自分の胸へ持っていった。 「くっクリスさん!?」 ヒューゴは柔らかな感触に頬を真っ赤に染め、慌てて手を引こうとしたが、クリスは強く握って離そうとしなかった。 「あなたが言いたいことはわかっている。だけど何度やったって怖いものは怖いんだっ」 小さく叫んで、理不尽な怒りと情けなさにクリスは俯いた。 「怖い?」 意外な言葉を聞いたというように、ヒューゴが呟く。 やはり解らないのだ、彼には。跳ねる自分の心臓の音が痛いくらい耳に響いているのに、この手を通して伝わっていないのだろうか。 白き英雄とも、鬼神とも呼ばれた女が、今縋れるものはこの手の温もりしかないなんて。 いっそ彼が恋人などではなく、ただ親友の死を恨むだけの相手なら。この手が本物の切っ先だったなら、戦うことも殺されることもできるのに。どちらを選ぶこともできずに自分は途方に暮れているだけだ。 ヒューゴは唖然として彼女を見ていたが、おもむろに空いている方の手で高い位置にある肩を引き寄せた。 「クリスさんってガードが固いんだか抜けているんだか……こんなことされたらもう引き返せないじゃないか」 クリスの頭を抱えて白い耳たぶに胸を押しつける。 わけがわからなくなって半分パニックを起こしかけたクリスだったが、人肌の温もりに少し落ち着くと、自分のものとは異なる鼓動が聞こえてきた。 独特の文様が織られた布地を通してかすかに、けれどとても速く。クリスは顔を上げようとしたが、強く抱き締められていて適わなかった。 「だから怖いんだよ。聞こえるだろう、俺の方が怖いんだよ」 抑えられた衝動がヒューゴの声を震わせていた。 「ごめん。クリスさんがこういうの苦手だって知ってるけど、我慢できないんだ。あなたは本当にすごく怖い人だよ。自分が止められなくなる。きっと俺だけじゃなくて、男ならみんなそうなんだ。だからこうしていないと不安でしょうがないんだよ」 自分より少し高い体温に包まれ、銀の髪をかき乱されて、クリスはくらくらした。 「クリスさんは何が怖いの?俺はどうしたらいい?あなたに嫌われたくないし、誰かに取られるのも怖いし、もうどうしたらいいかわかんないよ」 警戒されたくなくて、怖がらせたくなくて、少年はお行儀良くしていたと言うのだ。まんまと引っかかる方も間抜けだが、そうして彼の激情をすべて注がれたら自分はどうなってしまうのだろう。クリスは恐ろしさに小さく喘いだ。 けれど―――もしかしたら、わかっていたのかもしれない。 ヒューゴの肩にそっと手を伸ばすと、抱き締めていた腕が少し緩んだ。身を起こしたら揺れる翠の炎と視線が合った。瞳を逸らしたくなるのを堪え、クリスは消え入りそうな声を必死に押し出した。 「わ、わたしは……こういうことは、すごく苦手なんだ」 「うん」 「だから……」 夜に飛ぶ小さな羽虫になってしまった気がした。 逃れることなどできるはずがなかった。なぜならわたしは、もうずっと前から、この炎に――― 「だから……?」 ―――囚われてしまったのだから。 「だから…………やさしく、して」 恐る恐る触れてきていた指は、いつの間にか大胆さを増してクリスを乱す。 声を抑えない方が苦しくないから、とは言われたものの、堪えないと何かが瓦解してしまいそうで呻くことしかできない。 羞恥と恐怖とがないまぜになり、気持ちが良いのか悪いのかもわからない。 身体の芯からかき乱されてクリスは悲鳴を上げた。 溺れているように息ができない。炎にまかれるように身体中が熱い。 追い詰められ、追い上げられ、その先は灼熱に焼かれるだけ。 何も考えられない。 呼吸もできない。 甘くて、熱くて、心地よくて、あられもなく泣いて許しを乞う。 救けて。気も狂うほど甘くて、苦しい。 救けて。もう狂ってしまう。死んでしまう。 ……死んでしまう! 「……これがあなたの復讐なのかもしれないわね」 親しい人を殺され、復讐を叫ぶ者たちを何人も見てきた。彼らの憎悪の瞳を忘れることはないし、挑まれれば戦う。 憎むなら憎むがいい。戦場で奪った戦士たちの命に、わたしは謝らない。けれど忘れない。 それはけして利害が一致しない彼らへの戦士としての礼儀だった。 でも、ヒューゴは。 剣を手に友の復讐を叫んでいた時の彼には、これほどの恐怖を感じたことはなかったのに。 鎧も剣技も立場もなんの守りにもなってはくれない。心と身体の内側から無防備にされ焼き尽くされる、その恐怖といったら――― 「え?何か言った?」 「いいや、なんでもない」 髪を梳いてシーツを掛けてくれる手の優しさ。 クリスは微笑んでとろりと瞼を閉じた。 いつか、彼が自分に愛想を尽かすような時が来るかもしれない。激しい瞳に混在している相反する二つの感情が、いつか一つだけになる日が。 残るとしたら、憎しみの方だろうとクリスは思う。 いつかは分からないけれど、その時には彼の憎しみは間違いなく自分の命を貫くだろう。 熱の後に訪れる眠りは、ひどく甘い。 それは多分いつか来る死にも似ている――― 寝息を立てるクリスの白い額に、ぎこちないくちづけが降る。 彼女はほんの少し身じろいだだけで、規則正しい呼吸が乱れることもなかった。 「……そうだよ、クリスさん。あなたがそう思うなら」 微笑が浮かぶ薄紅の唇にもう一度くちづけて、ヒューゴも微笑んだ。泣き出しそうな笑みだった。 「だから俺を怖がらないで。もっと俺を好きになって。俺から離れられなくなって」 そうでもないとあまりにも不公平だ。 親友を殺され、村を焼かれ、その上心まで奪われた。 そっと指を伸ばして、灼けた鉄に触れたみたいにすぐに引っ込める。 怖がらないで。嫌いにならないで。 やさしくできるならしてあげたいのだけど。 しどけなく眠る彼女の姿はとんでもなく目の毒。 三度目のくちづけはもうできなかった。
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