花咲み
湖に面した城の広間には、今や炎の運び手と呼ばれるようになったグラスランド・ゼクセン混合軍の指揮官たちが集まっていた。 聞いておかなければならないとは分かっているものの、この部屋で行われる会議はいつも内容が難しく、ヒューゴの悩みの種だ。大体の内容を把握しておけば、後でアップルに分かりやすく噛み砕いてもらえるので、とにかく耳を傾けている。 ヒューゴは隣で自分の母と言葉を交わしている女性をこっそりと横目で見遣った。 まだ若い女性でありながらゼクセン騎士団を束ねる人。クリス・ライトフェロー。 きりりと上がった眉。まっすぐに前を見据える瞳。引き結ばれた薄紅の唇。 作り物めいて美しい、とヒューゴはぼんやり考えた。 初めて顔を合わせたときから、凛とした顔は強い印象をあたえるけれども、表情には乏しかった気がする。随分昔に、ダッククランの交易商が見せてくれたゼクセンの陶人形に似ていた。 ―――このひと、本当に笑えるのかな。 同じ城の中に暮らし始めて数日、ふとした時にそんなことを思っていた。 笑った顔、ましてや泣き顔なんて見たことがないし想像もできない。 寄せ集めの軍をどうまとめていくか、今日の打ち合わせが一段落して、集まっていた面々が思い思いに姿勢を崩す。 「……ではまた、ヒューゴ」 横を通り過ぎるときに声を掛けられ、自分でも変に思うくらいびっくりした。固いわけではないが、微笑みもない横顔が過ぎてゆく。 「あ、ああ……」 どうにか小さく返事をした時には、既に扉が閉まるところだった。丁度彼女のことを考えていたときに声を掛けられたから驚いたのだ、と心中で言い訳をしてヒューゴはアップルに会議の内容を訊きに行った。 どうやって軍を統率するか。それぞれの間にあるわだかまりをどうやって解いてゆけばいいのか。ハルモニアのこれからの動きをどう予測するか。アップルに説明してもらったことを懸命に頭に詰め込む。軍を動かすということがこんなに面倒なことだとは。 「なんか、大変なんだな……」 思わず呟いたら、シーザーに遠慮なく笑われた。 「こう動こうと決めたからって、はいそうですかって、簡単にはいかないさ」 アップルはだらしなく壁にもたれている弟子を小突いて苦笑してみせた。 「考えるのは私達の仕事だから、そんなに気にすることはないわ。ブラス城で聞いたあなたの気持ちは立派だった、だから皆あなたについていこうと思ったんだもの。……でもヒューゴ、戦争には……いいえ、戦争だけじゃなく、人が集まるところには感情だけでは立ち行かないこともあるってこと、覚えておいてね」 柔らかな口調がふと真剣味を帯びる。 「誰もが同じ感情を持てるわけじゃないし、感情のままに行動できるわけじゃない。どんなに感情や良心がそうしろと命じても、悪い結果を招くならそれを行うのは愚かだと言わなければならないわ。同じように、どんなにしたくないと思っても、敢えてしなければならないこともあるでしょう」 「……例え相手が『鉄頭』でも今は仲間として受け入れろってこと?」 「それだけではないけど……まあ、今はそれでもいいわ」 理解したとは言えないが、ヒューゴは神妙に頷いた。 とりあえずこれで会議は終わりなので城の中の見回りでもしてこいと言われ、解放感に頬が揺るむ。部屋を出る前に扉の隙間からアップルの声がするりと耳に滑り込んできた。 「志をもって戦場に立つものは、誰でも多かれ少なかれ矛盾を抱えているということよ……」 ヒューゴは後手に扉を閉め、一度伸びをすると吐息と共に呟いた。 「矛盾……か」 そういえば、チシャの村で彼女もそんなことを言っていた。戦場にあって剣を振るうことを躊躇わない、しかし、目の前で死んでゆく人を放っておくこともできない。そんな気持ちがあると。 城の外に出ると、陽はもう傾きかけていた。なんとなく抱えてしまった重い気分を解消するために、ちょうど小腹も空いたのでレストランに向う。途中でジョー軍曹と彼に甘えて押し倒しそうになっているフーバーを拾い、湖に面する階段を降りた。 いつもの賑わいを見せるテラスに足を踏み入れたところでヒューゴは思わず立ち止まった。 「ヒューゴ?」 ジョー軍曹が怪訝そうに見上げる。ヒューゴの視線を辿ると、その先にはお茶をしているらしいゼクセン騎士の一団があった。 日当たりの良いテラスでひときわ目立っている誉れ高き六騎士たち。中でも騎士団長を努める白銀の髪の女性にヒューゴの視線は釘付けになっていた。何を言われたのか薄く頬を染めて抗議していたかと思うと、誰かの言葉に口を噤み、それから軽やかに笑い出した。 ヒューゴは凍りついたように立ち尽くしていた。クリスのきつい目元は柔らかに細められ、形の良い唇が薄く開かれている。 ―――笑えるんじゃないか。 見たこともなかったあんな表情。驚くほど柔らかな、やさしげな笑顔。 腹の底がかあっと熱くなった。 どうして笑えるんだ、あの女は。あれだけのことをしておいて。 「ヒューゴ?おい、どうしたんだ」 突然くるりと踵を返した少年に軍曹は慌てて短い脚をばたつかせ追いついた。 「……なんでもない。軍曹、やっぱりレストランはやめて馬に乗りに行こうよ」 ジョー軍曹はテラスを振り返って眉を顰めた。 「クリス……か?」 「違うよ」 ぶっきらぼうな答えに彼は肩を竦めた。 「憎いのは分かるがこんな時分だ。大人気ないことはするな」 「違うってば」 「一緒に戦うって決めたんだろ?おまえも一人前の男なら挨拶のひとつでもしてこいよ」 ヒューゴはむっとしてそっぽを向いた。 「したってしょうがないよ。むこうだって俺がそんなことしても嬉しくないだろうし」 分かってしまったのだ。笑顔を見たことがなかったのは彼女が笑わないのではなく、自分に笑顔を向けたことがないだけだということ。 向けられるわけがない。そんなことは分かっているけれど。 なぜだろう、やけにイライラする。 あの人だって俺のことが嫌いなはずだ。現に必要以上には声をかけてこないし、自分に対してはいつも固い顔をしている。お互い様なのだ。 今は必要に迫られて手を組んでいるだけ。どうせこの戦いが終わればまた敵同士に戻るのに、親しく挨拶などしてどうなるというのだろう。 「そんなこと言ってるうちはまだまだガキだよ、おまえは」 ジョー軍曹はにやりと笑うとヒューゴの背中を大きな羽毛の生えた手で張り飛ばした。 「うわっ……」 「いいから声をかけてこい。悪いようにはならん」 ヒューゴは渋々元来た方向に足を向けた。レストランのテラスでは、クリス他の騎士たちを残し席を立つところだった。クリスがこちらに向かってゆったりと振り返る瞬間に、ヒューゴは意を決して口を開いた。 「……クリスさん」 クリスは自分に声をかけた相手を認めて目を瞠った。その顔から笑みが消えたのを見て取り、ヒューゴは胃が重くなった気がした。 「ヒューゴ……何か?」 「えっと……その、通りがかかったら見かけたから」 理由にもならないようなことをしどろもどろに言うと、クリスもそれくらいしか返せなかったのだろう、「ああ」と短い応えがあった。 クリスの後ろでは騎士たちが興味しんしんでこちらを見ている。 「……じゃあ」 他に話題も見つからず、ヒューゴは情けない気分でジョー軍曹たちのところに戻ろうとした。その時だった。 「ありがとう、ヒューゴ」 肩を軽く叩いた細い指の感触。耳元に囁かれた柔らかい声。 ヒューゴは立ち竦み、数秒の間動くことができなかった。やっと振り向いたときには、ゼクセンの女騎士は城に向かって歩み去ろうとしていた。 ぽかんとした顔つきで戻ってきた少年を、ジョー軍曹はにやにやしながら、フーバーは小首を傾げて待ち構えていた。 「首尾よくいったか?」 「……びっくりした……俺、あの人に触ったの初めてだよ」 「そんなに驚くことか?おまえがしていたことがそのまま返ってきているだけじゃないか」 「―――え?」 ヒューゴは虚を突かれてジョー軍曹を凝視した。 「おまえが今まで避けていたから、向こうも近づこうとしなくなった、それだけのことさ。簡単だろ。どれだけきっかけがあってもそれを拾わなきゃ何も変わらないんだよ」 「……何のきっかけだよ?」 胸の辺りがもやもやする。彼女のことを考えると、頭の中がまとまらない。考えたくもないのに、彼女のことを考えてしまう。矛盾というならそういうことなのだろうか。 「そのうちわかるさ」 「アップルさんも同じことを言うんだ。ジョー軍曹、俺ってそんなにガキなのか?」 いつものように、子ども扱いに抗議する声ではなかった。 渋さが売りのダックは苦笑混じりにくちばしを反らせた。 「大人になるってことは年齢の問題じゃないのさ。心の問題だ。なあヒューゴ、おまえはカラヤの男としては確かに一人前と認められているのかもしれない、だがな、本当に大人になるにはもっと世界を広く見なくちゃならんと思うんだ」 羽毛に包まれた手が羽ばたくように示した先には湖の澄んだ湖面と、そこに移る青い空だった。 穏やかに揺れている水を辿ればやがて海に行き着く。そこには肌の色も服装も、神さえも違う人々が住んでいる。 「あの夜のことは正直を言えば……俺だって許せないよ、ヒューゴ。クリス本人は悪いやつではないから、余計にやりきれん……」 溜息交じりの言葉にヒューゴは憤った。彼女の美しい、静かな佇まいの裏に冷たい残酷さが宿っていることを自分は知っているのだ。 燃え盛る村を見つめて彼女が呟いたのを、はっきりと覚えている。 「違うよ軍曹、あいつは……!」 しかし鋭い抗議の声に、ジョー軍曹からは一瞥が返ってきただけだった。 「俺たちの都合だけでもの考えて、うまくいかないからって被害者ぶっているのは楽だ。でもこの世界は俺たちの都合だけで動いているわけじゃない。誰にとってもそうなのさ。俺たちだけじゃない、あの女にとっても、ハルモニアのやつらにとっても……それを認められるようにならなきゃならん」 「でも、あいつは!!」 ジョー軍曹はヒューゴの肩にやさしく手を置き、声の調子を落とした。 「何もかもが納得できることばかりじゃないが、それでもたくさんの人が生きて暮らしているこの世界で、どうしたらよりよく生きていけるのか。それを考えられるのが大人なんだと俺は思っているぜ」 悔しさに耐えられなくなって、ヒューゴは叫んだ。 「俺にはできない。俺にはわからないよ!!」 肩の手を振り払って走り去る少年の小さな背中を、すれ違う人々が何事かと見送った。 彼のお目付け役を務めるダック戦士は苦笑を浮かべたが、追いかけようとはしなかった。いくら自分が諭したところで今は効果がないだろうから。 代わりに、遠ざかる背中へ聞こえないエールを送った。 「そう気落ちするな。お前は見所があるぞ、なにしろ炎の英雄になったくらいだからな!今回の戦いはおまえにとって大きな経験になるだろう。頑張って立派な英雄になれよ」 夕焼けが辺り一面を真っ赤に染め上げている。 湖を一望できる崖の上に彼女はいた。銀色の鎧に包まれ、背筋をぴんと伸ばして。 無視して通り過ぎようかとも思ったのだが、彼女が人気のないところにひとりでいるなど滅多にないことだったので、足が止まった。 どういう偶然かその瞬間にクリスが振り返り、ヒューゴはしまったと思った。目が合ってしまった。 「ヒューゴ……」 独白に似た声まで聞こえる距離。こうなってはもう無視することもできない。 「……クリスさん、何してるの」 クリスは応えがあったことに少し意外そうな顔をしたものの、すぐに目礼をして湖の方に向き直った。 「ブラス城で死んだ者たちの埋葬が終わったから……」 祈っていた、とかすかな吐息が風に混じる。 「私たちの同胞は女神の御許に……あなたの同胞は土と風に還れるよう……ハルモニアの人々は、死んだらどこへ行くのだろうな?」 「…………」 冷えた胸を抱えて、ヒューゴは風に揺れる銀の髪を見つめた。 自分が殺した敵のためまで死後の安寧を祈るとは、お優しいことだ。そんなことをするくらいなら、なぜ戦場に立ったりするのだろう。 彼女の祈りの中に自分の幼馴染もいるのだろうか。彼女が何を見ているのか確かめたくなって隣に並んだ。 湖には大きな赤い夕日が沈もうとしている。 「そういえば……あの時もこんな色の空だったね」 冷酷な一言を口にしているとは思った。クリスがゆっくりと目を伏せる、その様が予想できてさえいた。 「ええ……」 夕焼けは燃える空の色。夜の炎に照らされたクリスの髪も鎧も、今と同じ朱の色をしていた。 「あなたがあの夜を忘れることはないのだろう……忘れてくれとも言えないよ」 当然だ。おまえがあの夜俺の大事なものをたくさん奪っていったんだ。 叫びたくなった衝動をヒューゴは拳を固めて抑えた。 一緒に戦うって決めたんだろう。英雄になるって決めたんだろう。大人気ないことをするな。ジョー軍曹の言葉を胸の中で繰り返す。 静かに深呼吸をすると、白銀の睫毛の下に濃い憂いを帯びた瞳が自分を見つめているのに気づいた。 「あの夜のことを謝るつもりはない。私たちにとってあれは必要なことだった。だが……あなたの友を手に掛けたことは、私の過ちだったと思っている」 一瞬の感情の嵐に呼吸が止まる。 ヒューゴは唸るような声で尋ねた。 「ルルが……子供だったから?」 それもあるけれど、とクリスは語尾を濁したが、ヒューゴの眼は沈黙することを許さなかった。 クリスは湖に視線を戻した。 朱に染まって揺れる水面が炎の揺らめきに重なった。 「あの村で、父が死んだ」 あまり静かな声だったので、意味を理解するのに数瞬の時間がかかった。 見開かれた翠の瞳が自分を凝視していることに気づかないのか、淡々とした口調で彼女は続ける。 「村の中に父の鎧が飾られていた……誰かが戦勝の記念の品にしたのかもしれないな」 「それは……」 違う、とヒューゴは叫びたかった。その鎧の持ち主は立派な最期を遂げたのだと、ジンバが言っていた。恨まれるような筋合いではない。形見のペンタグラムだって届けたのだから、知っているはずなのに。 しかし硬い声に混じるほんの微かな震えがヒューゴの喉を塞いだ。 「あの時、私は……怒りに我を忘れていたんだ」 白い頬から目が離せなくなる。 そこに立つ女は、今まで見てきた『ゼクセンの白き英雄』とはまるで別人に見えた。 「そうでなければ多分、避けられないことはなかった。不意打ちを受けたとはいえ怒りに任せて子供を殺してしまうなんて、騎士としてあるまじきことだ」 噛み締める唇に滲んだ後悔。 その横顔が炎に照らされた夜の姿と重なり、ヒューゴは凍りついた。 ―――どうして気づかなかったのだろう。今まで。 表情に乏しかったのは、どんな顔をすればいいか分からなかったからではないか? 今までだって注意深く見てさえいれば、ちゃんと分かったはずだ。いかにも生真面目な仮面の下にどれだけの感情が秘められていたのか、少しも測ろうとしていなかった。 この人は、俺たちを憎んでいる。 嫌いだとか、そういうレベルの感情ではない。もっと深いところで、きちんとした理由があって、彼女はカラヤの民を憎んでいる。それだけのことを、どうして気づかなかったのか。 クリスの父親はカラヤでただ死んだのではない。殺されたのだ。 どんな立派な死に様だったとて、それがなんだというのだろう。父親を殺された娘が、殺した相手を憎まないことがあるか?その答えは、自分こそがよく知っているではないか。 黙りこんでしまったヒューゴの耳に、小さな呟きが触れる。 「……英雄などというものは、幻想に過ぎないんだ」 「え?」 唐突に話題が変わり、ヒューゴはきょとんとした。 「英雄というのは人々の期待が生み出した単なる幻だ……炎の英雄の許へ行ってそれがわかった」 「幻……って」 クリスの顔にちらりと苦みがよぎる。 「私をゼクセンの英雄などと呼ぶ人もいるが、本当を言えば私自身は所詮ひとりの女に過ぎない。私はそんなに強くはないし、立派な人間でもない。ただ、人々が英雄というわかりやすい希望を欲しがっただけだ」 ヒューゴも、オクタリオもそうだ。大きな力を持ってはいても、ただの人間であることに変わりはない。 ヒューゴがなんとも定めがたい顔をしているのに気づいたのか、クリスは苦笑したようだった。 「すまない。弱音に聞こえたか?そういうつもりではなかったのだが」 戸惑いを隠せないでいる少年にクリスは向き合った。 「私は……私の大事な人たちを、守りたいと思う。守りきれなかった人もたくさんいたけれど、私は私の手が届く限りの人をどうあっても守りたいんだ。だから……そのために必要なら……英雄を演じてみるのもいいかなと思ったのさ」 口の中がからからで、ヒューゴは何も言えない。 目の前に立つ、ゼクセンの白き英雄。 ジョー軍曹の言うとおりだ。何も見えていなかった。今までルルのことを、自分と彼女だけの問題だと思っていた。 憎しみを乗り越えなければならないとは思っていた。 だけど、偉そうなことを言っておいて、それがどういうことなのか、本当に分かってはいなかったのだ。 あの夜確かにゼクセン人を許せないと思った。だから、彼女が後悔することばかりを望んでいた。後悔に押し潰されて笑うことすらできなくなればいいと思っていた。彼女の苦しみがゼクセン人の苦しみなのだと、いつのまにか思っていた。 冷静に考えればそんなことがあるわけないのに、心の底では確かにそう思っていたのだ。 だから、村を焼かれ大切は人を奪われた自分たちは、自分は、彼女を許してやるだけでいい。許せない自分が未熟なのだと思っていた。 恨まれる筋合いがない、だなんて。許してやる、だなんて。 なんという傲慢さだ。 彼女に宿った憎しみと悲しみの正体も知らないままに。 『こんな村……燃えてしまえばいい……』 あれは、常に気高い騎士であろうとするクリスが、こらえきれずこぼした本心だったのだろう。 彼女を憎み、ゼクセン人を憎み、殺してやりたいと思った自分と同じ。 そして戦いを始めた以上、これから奪うであろう命たちと同じ。 ゼクセンの白き英雄がそうならば、炎の英雄だって、ハルモニアの英雄だってきっと同じだ。 同じだから、ヒューゴは自分の弱さが嫌と言うほど分かってしまった。 過ちを認めはしても、許してほしいとは決して言わない彼女。 戦いとは、何かを守るために、誰かを傷つけ切り捨てようとする行為なのだ。ならば英雄は憎まれて当然の存在だ。 炎の運び手に親しい者を殺された兵士は、きっと誰よりも炎の英雄を憎むだろう。 英雄とはそういうものなのだ。 高名になればなるほど、味方には賞賛され、敵には憎まれる。本人が護った数より多くの賞賛と、そして屠った数より多くの憎しみを受けるのだ。 「俺は……」 自分が負ったものの恐ろしさを実感して、ヒューゴは慄いた。 英雄の名を継いだ自分が、戦うことを選んだ自分が、相手が憎むことを許さずに自分だけ憎んでいればいいなんて、虫が良すぎやしないか。 「俺は……俺なんかが……英雄になんて……っ」 掠れた声で呟くと、クリスの顔にふと辛そうな表情がよぎった気がした。 憐れまれたのかもしれない。そう思うとヒューゴは自分があまりにも矮小に感じられて逃げ出したくなった。 どうしてサナは、オクタリオは俺なんかを後継に選んだのだろう。 自分はどうしようもなく未熟で、弱くて。どうして彼女ではなくて。どうして。 薄紅の唇から発せられた声は優しく、柔らかな刃のようだった。 「ヒューゴ、あなたはあの哀しい夜を繰り返したくないと言ったわね」 真摯な瞳に問いかけられ、心臓が跳ねる。だがヒューゴはその瞳を見返し、頷いた。嘘はなかった。それだけは誇りたかったから。 途端、クリスのきつい目元が緩められ、唇が柔らかな弧を描いた。 花が綻ぶような笑みを浮かべてクリスは静かに言った。 「私はその言葉を信じている……あなたの中に希望を見ている。だから私にとってあなたは英雄だ……あなたが、炎の英雄でよかった」 何かが足元から湧き上がり、背中を駆け抜けてゆくのをヒューゴは鳥肌を立てて感じていた。 「私たちがこうして話していられるのも束の間かもしれない。この戦いが終わればまた剣を向け合うことになるのかもしれないが、だが今は……炎の英雄ヒューゴ、私はあなたの剣となり、盾となり、あなたとともに戦おう」 ヒューゴは目をいっぱいに瞠って、その場に釘付けされたように動くことができなかった。 口だけは開いても呼吸すらできない。 クリスが再び目礼し立ち去ってからしばらくして、ようやく引きつった喉を空気が通った。震える拳をもう一方の手で強く握りこむ。 「……くそっ……」 足元の湿った砂を思い切り蹴り飛ばす。 「畜生……」 胸が痛くて打ちのめされそうだ。 ルルを失ったことを思えば今でも心に穴を穿たれるようで、あの恐ろしくも美しい瞳に憎しみは消えはしない。そして守ってやれなかった自分が、あんまり弱くて情けなくて。 身勝手だと怒るだろうか、向こうっ気の強かった弟分は。 彼女が自分を認めてくれたことがこんなにも誇らしいなんて。笑いかけてくれたことが身の内も震えるほど嬉しいなんて。 あんな女、知らなければよかった。知らなければただ仇として憎んでいることもできたのに。 ごめんな、ルル……。 夕日はもう姿を隠し、残照だけが赤く空を焼いている。 俺は、彼女のように強く気高い英雄になりたかった。 あんなきっかけで出会ったのでなければ、もっと違う接し方もできたかもしれないのに。敵国の騎士とはいえ憧れることすらできたかもしれない。それなのに、どうしてあんなところであの人に出会ってしまったのだろう。 悔しさと憎しみと嬉しさと。いろんな気持ちがないまぜになってどんな顔をすればいいのか分からない。 けれど明日からはきっと、もっと素直に彼女に声をかけることができるだろう。 「クリスさん、俺は……たぶん、あなたのことが嫌いじゃないよ」 小さな呟きを、城に向かって走る風にそっと乗せる。 彼女の祈りが届けばいいと思った。 |
はい!語ってます!(吐血)
ヒュークリのつもりだったんですけど。もういいです…ううう、忘れて下さい(爆)