白い夜



 
 
 

 クリスは窓の外を眺めていた。
 普段はあまりそういうことはしない。ここは長年過ごした自分の家なのだし、窓の景色も特別なものには感じないからだ。
 だが祭の夜は違う。
 ビネ・デル・ゼクセの街では夜遅くになってもランプの灯りがそこかしこに煌き、連なる屋根に積もった雪に反射している。
 外は息が白くなるような寒い夜だが、なぜか温かい気持ちになれる光景だった。
 雪に埋もれた我が家の庭にも揺らめく明かりが点っている。執務に没頭して滅多に帰ってこない屋敷の女主人のために、執事が心を込めて飾ったものだ。暖炉意外には部屋の中に光源を置かず、自室から見える幻想的な景色を眺めるのが好きだった。
 クリスが久々にゆっくりとくつろいだ気分で温かい紅茶のカップに口を付けた時、窓の外でごそごそとなにかが動く気配がした。
 常識ある訪問者なら、2階の窓から入ってこようとはしないだろう。すっと菫色の眼が細められる。職務外とはいえ、不埒にも自宅に侵入してきた不審者を野放しになどしておけるものか。
 相手にこちらの気配を悟られぬよう、傍に置いてあった剣を静かに抜く。
 誰かの手が窓枠にかけられた瞬間を狙って、クリスは剣の柄で叩きつけるように窓を開け放った。
「うわぁっ!?」
 ランプの明かりが浮き上がらせた侵入者の姿にクリスはぎょっとした。
 俊敏な動きで体勢を立て直したそれは、真っ白な獣に見えた。だが先ほど聞こえた声は確かに人間のものだ。
「何者だ!?」
「ま、待ってよクリスさん!俺だよ!」
 突きつけようとした剣がぴたりと止まる。
 聞き覚えのある声に、クリスは眼を瞠った。獣の白い毛の間から褐色の腕が生えている。
「ヒューゴ……?」
 毛皮の下に現れた翠の瞳。カラヤ族の少年は改めて窓枠を乗り越え、大きく息をついた。
「あー怖かった。会うの久しぶりだから、もう俺のことなんて忘れられちゃったのかと思った」
 クリスはむすっとしたまま剣を納めた。忘れられるわけがないのを知っているくせに、わざとらしい。
「そんな格好をしているからわからなかったのよ。大体なんでこんな夜遅くにわざわざ窓から入ってくるんだ」
 叱りつけるような口調で問い質すと、ヒューゴの表情は幼くなる。
「だってさあ……この格好で表にいたら目立っちゃうだろ?夜なら大丈夫かと思ったのに意外と街に人が多くてさ。せっかくここまで来たのに怪しまれて追い返されるのも嫌だし」
「裏の窓から入ろうとする方がよっぽど怪しいぞ。それにうちの執事はおまえの顔をちゃんと覚えている。ブラス城じゃないんだから、堂々と玄関から入ってこい!」
 ヒューゴは冷たい風の吹き込む窓を閉め、神妙な面持ちで振り返った。
「いいの?変な噂でも立ったらクリスさんが困るんじゃないか?」
 時期族長としての教育を受ける中で、少年は様々な駆け引きの仕方も学んでいるようだ。噂だって利用すれば立派な武器になる。
 本来なら成長期にある筈の少年は、真なる紋章の力で肉体に変化は見られなかった。しかし顔に精悍さが増したように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。クリスは口元を綻ばせた。
「なんとでもなるさ。心配するな」
 ヒューゴが少し俯いて、顔を毛皮に隠してしまう。不意打ちの笑顔をくらって紅くなった頬を隠すためなのだが、クリスは気づかずに白い毛皮に手を伸ばした。
「で、この格好はなんなんだ?」
 真っ白の長い毛皮はヒューゴの肩から膝の辺りまでを覆い、頭は狼のようだった。
 ヒューゴは笑って、得意げに腕を上げ毛皮を広げてみせた。
「これは冬の精霊、雪狼の姿をしているんだ。グラスランドではね、冬至の祭の夜には精霊の扮装をした若者たちが村を回って子供の枕元に贈り物をしていくんだよ」
 クリスははっとして胸を押さえた。
 躊躇いがちに問う声は、無意識に低くなる。
「それは…本当なのか?」
「本当だよ。ダックやリザードの村では、精霊の存在を信じていないからやらないけどね」
 瞬きもせず立ち尽くしているクリスに気づき、ヒューゴは怪訝そうに見上げた。
「どうかした?」
「いや……なんでもない。しかしそれならあなたは祭の主役だろうに、村にいないのはまずいじゃないか」
「精霊役は俺だけじゃないもの。平気平気」
 ヒューゴはけろりとして懐を探り、小さな包みを取り出した。
「まあそういうことだから、今日はクリスさんに贈り物を持ってきたんだ」
 大切な祭だろうに、少年はあっけらかんとしている。草原の民の女族長は今頃、不良息子に怒りの炎を燃やしていることだろう。思わず苦笑が漏れた。
「まったく、仕方のない精霊だな。私はカラヤ族ではないし、子供でもないぞ」
「いいんだよ、細かいことは気にしなくて!」
 ヒューゴは突然背伸びをして勢いよくクリスの肩を抱き寄せた。バランスを崩した背の高いクリスを、頭ひとつ分小さな少年の身体が意外にもしっかりと受け止めた。
「我が宿敵にして戦友、そして我が愛しき人に、来年も精霊の加護がありますように」
 優しくて、少し緊張した声色。包み込んでくれる雪の色の毛皮は暖炉の炎よりもっと温かい。はじめは驚いて身を固くしたクリスだったが、温もりに微笑が浮かび、自分も腕を伸ばして少年を抱きしめた。
「あなたにも女神の祝福がありますように……ヒューゴ、実は私もあなたに贈り物があるのだけれど、受け取ってもらえないか?」
「え?」
 面食らった様子のヒューゴとは裏腹に、クリスは笑って身を離すとベッドサイドの引き出しから革張りの飾り箱を取り出してきた。
「本当は明日にでもカラヤを通る隊商に預けようと思っていたのだけど、丁度よかったな」
 予想外のことに戸惑いながら、ヒューゴは箱とクリスの顔を交互に見た。
 冬至の祭はグラスランドだけのものではない。なんとなく誇らしい気分でクリスは箱を手渡した。
「私たちゼクセンの民にとって、今日は女神の恵みが降る夜なんだ。今夜ばかりはどんな諍いも忘れ、お互いに贈り物をすることになっている。ゼクセンが連邦国家になる以前は、たとえ仲の悪い公国同士でも贈り物をしあったんだ」
「へえ……」
 ヒューゴは箱のふたをそっと開けてみたが、そこで固まってしまった。
 嬉しくなかったのだろうかと不安になり、クリスはおずおずと尋ねた。
「あの……なにかまずかったか?」
「そんなことない。すごく嬉しいよ……ありがとう」
 やっと笑顔が見られたのでほっとする。
 ヒューゴは大切そうに箱を閉めて腕に抱えた。何か言おうとしたのを遮るように、暖炉の火が大きな音を立ててはぜた。
「やばい、そろそろ帰らないと。フーバーが森の入り口で待ってるんだ」
「それはいけない、風邪をひかせてしまうな。フーバーは兎のパイなんて食べる?まだ温かいはずだけど」
「うん、あいつ喜ぶと思うよ」
 突然部屋から出てきたかと思うとパイを包んでくれと言い出し、部屋に持って行こうとする女主人に執事は不思議そうな顔をした。だが頬をうっすらと紅潮させた娘らしい表情を見ては、何も訊かないことに決めたようだ。
 理解ある執事に心中で感謝しつつ、クリスが部屋に戻ると、白い精霊の姿をした少年は贈り物の箱を袋に入れて抱え、開け放った窓の傍で待っていた。
 パイの包みを受け取ったヒューゴが窓枠に脚をかけようとするので、クリスは呆れた。
「なんでまた窓から帰ろうとするんだ……堂々と玄関から入ってこいと言っただろう。帰りも玄関から帰ればいいのに」
「あ、そうか」
 だがヒューゴはやはり窓から帰ることを選んだ。
「外の通りで注目浴びたくないし……なんとなくこっちの方が精霊っぽいだろ?」
 よく分からない理由だが、要するにこの少年は楽しんでいるのだろう。クリスはこれ以上突っ込む気もなくなってしまった。当分の間は夜の訪問者に驚かされることになりそうだ。
「じゃあ、クリスさん。またね」
「あ……ヒューゴ」
 窓枠を乗り越えた少年をつい呼び止めてしまい、クリスはどうしようかと思ったが、振り返った白い獣に意を決して近づいた。
 子供たちを護る冬の精霊の姿は、優しく気高いカラヤの少年によく似合っている。
 鼓動はとても速くて熱くなっているのに、不思議と静かな気持ちで、クリスは褐色の唇にそっとくちづけた。
「……!!!っわぁぁぁ!?」
「ヒューゴっ!?」
 泡くって手を滑らせ、ヒューゴは窓枠から落ちた。クリスも慌てて身を乗り出したが、幸いにもすぐ下に屋根が張り出しており、白い毛皮が積もった雪をかきわけて滑り落ちるのを防いでいた。
 落ちた拍子にどこか打ったのではと心配になったが、ヒューゴが押さえているのは心臓だ。
「ヒューゴ!!大丈夫か!?」
「だ……大丈夫……」
 起き上がって雪を払う少年が案外元気そうなので、クリスはほっと息をついた。
 窓を見上げてくるランプの明かりに浮かび上がった顔は、遠目にも真っ赤に染まっている。
「平気だから気にしないで。……でもクリスさん、次からはちゃんと心の準備をさせてくれよ」
 謝る暇も与えずにヒューゴはにっこり笑うと素早く屋根を伝い、明かりの外に消えていってしまった。
 クリスは視界から少年の姿が消えても長いこと外を見つめていたが、小さなくしゃみが出る頃になってようやく窓を閉めた。
 気が付けば肩がすっかり冷え切ってしまっている。クリスはショールを探し出して羽織り、暖かな暖炉の近くのソファに避難した。
 もう一度くしゃみして、これではフーバーの風邪を心配している場合ではないなと苦笑する。
 身体が少しずつ温まってきたところで、大事に握っていた贈り物の包みをゆっくりと解いた。
 出てきたのは繊細な木彫り細工の髪留めだった。カラヤの文様にとりどりの花が美しく咲き乱れている。
 指先で花びらの形をなぞりながらクリスは銀の睫毛を伏せた。
 ヒューゴには言わなかったけれど、クリスが『精霊の贈り物』をもらったのはこれが初めてではなかった。
 父が行方不明になった翌年から、毎年冬至の明くる朝にはクリスの枕元に小さな贈り物が置かれていたのだ。
 贈り物は昨年の冬まで長いこと続いていた。クリスはそれを執事が自分を喜ばせるためにやっているのだろうとずっと信じていた。問い詰めても本人は否定するし、ブラス城で年末を過ごしているときにも続いていたので、どうしてだろうとは思っていたのだが。
「大胆というか、なんというか……本当に仕方がないな、グラスランドの冬の精霊というのは……」
 語尾が震え、クリスはソファの上に膝を抱えた。外の雪を照らすランプの明かりが滲んで見える。
 ゼクセンの地にまで足を伸ばす変わり者の精霊は、今夜新たに代替わりしたのだった。



◆◆◆



「フーバー、おまたせ。ごめんな、寒かったろ」
 雪に紛れてしまいそうな白い羽のグリフォンが、甲高い音で喉を鳴らした。
 ヒューゴは羽毛に覆われた首筋を軽く叩いてやり、友人に感謝の言葉をかけて抱えていた袋の口を解いた。
「ほら、クリスさんからお土産をもらったよ。これを食べたら帰ろう。また雪が降ってきそうだ」
 嬉しそうに早く早くと催促され、ヒューゴは苦笑交じりにパイを切り分けた。一切れ分のおこぼれを貰って齧り、後はフーバーがせっせと食事するのを眺める。
 ふとした拍子に腕の中の箱がことりと音を立て、先ほど落ちた拍子に壊れたりしていないだろうかと気になった。
 確かめてみると、丈夫な革張りの箱はちゃんと形を変えず健在だった。胸を撫で下ろしたのも束の間、ヒューゴはふたを開けて溜息をついた。
「なあフーバー、これってどう思う?」
 呼びかけられてフーバーは顔を上げ、首を傾げた。
 箱から取り出されたのは、意匠を凝らした一振りの短剣だった。掌くらいの長さのそれはカラヤのものとはまったく異質の装飾だが、ヒューゴから見ても実に美しかった。
「まいっちゃうよなあ。もう俺どうしよう」
 弱り果てた声を上げ、頭を抱える。
 カラヤの女性が男性に剣を贈るのは、結婚の儀式だ。
「クリスさんのことだから、多分知らないでくれたんだろうけど……」
 そう思うとほっとしたような、残念なような。
 ヒューゴは赤い顔で口元を覆った。唇にさっきのキスの感触がまだ残っている。
 心臓が止まるかと思った。窓から落ちた痛みよりも、この心臓の方がよほど危ない。
 横を見るとフーバーはパイの最後の一口を美味そうに平らげているところだった。
「フーバー……真面目に聞いてくれよぉ……」
 ただでさえこれから大変な試練が待っているというのに。
 実の母親である族長からのお説教という試練が。
 腹を満たして上機嫌のグリフォンを見ながら、ヒューゴはしょうがないなともうひとつ溜息をついた。
 どれだけお説教されても、きっと来年も自分は同じようにあの綺麗なゼクセンの女性に贈り物をしにくるのだろう。ならば覚悟を決めて叱られるしかない。
 剣を納めた箱を再び大事に抱えて、二匹の白い獣は夜空に飛び立った。


 
 
 


 
 

 
冬のクリス受同盟企画『王子様と雪の夜』に捧げさせて頂きます!
なんて素敵な企画タイトルなんでしょう。
残念ながら私が書くとどこに王子様がいるのやら…
色々マイ設定作ってますが、笑い飛ばしてやってください(爆)

 
 

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