100のスキ 1000のキス



 
 
 


 しなやかな指が天幕のひだをなぞった。
 本来なら白いはずのその手は、今は無骨な金属鎧に覆われていて、物思いにはとても似合うものではない。
 アンバランスな自分の姿を密かに笑い、クリスは手甲を外した。
「もう……明日、いや、もう今日だな」
 昼頃にはビュッデヒュッケ城に着く。そこでグラスランドにある各民族の会談が行われるのだ。ゼクセン連邦も評議会から代表を出して参加する。クリスはその護衛として騎士団の一部を率いているのだった。
 公務で来ているのに不謹慎だとは思うけれど、心臓が今にも羽ばたきそうに高鳴るのを止められない。
 明日、再会する……あの人はこの夜をどう過ごしているだろう。最後に別れた日の熱っぽい視線を思い出せば身体の芯までも熱くなった。
 共に戦った日々は既に遠く。湖の城を去る前夜、自室の扉を叩いた異民族の少年が真っ赤になって告げた言葉は、甘やかな恋の痛みを胸に残した。
「ヒューゴ……」
 そっと呟いたら切なさが胸に満ちて、まるで十五の小娘みたいだと可笑しくなった。
 あれから三年―――
 はじめはことあるごとに国の境を越えてクリスに会いに来たヒューゴだったが、母親から族長の座を譲り受けることになって忙しくなったのか次第に訊ねてくる回数も少なくなった。特に正式に族長を継いだ去年からは、騎士団のうち数名を伴ってクリスが親族長誕生のお祝いを述べに行ったきりだ。たまに手紙はやりとりするものの、実に半年以上も顔を見ていないことになる。
 溜息をついてクリスは首を振った。彼のせいではないと分かってはいるのだ。自分こそ気がつけば仕事にかまけてばかりで彼に会いに行くこともできないのだから。それでもどうしても不安が湧きあがってしまうのだ。
 もしかしたらもう彼にとって自分はそれほど重要ではなくなってしまったのかもしれない。もしかしたら、復興を遂げたカラヤの村には、七つも歳の離れた自分などよりもっと彼に似合う娘がいるのかもしれない。真の紋章を持つが故に姿こそ変わらないものの、大人びた言動と表情を身につけたヒューゴはとても魅力的で、多くの娘を惹きつけるに違いない。
 クリスは脱いだ鎧にもたれ、眉根を寄せて瞳を閉じた。
 彼の誠実な人柄はよく知っているのに、こんなことを考えてしまう自分がひどく浅ましく思えて嫌だった。
「……誰だ?」
 ふと天幕の外に気配を感じてクリスは身を起こした。
 ほんの少しの戸惑うような沈黙の後、静かに天幕の入口をかき分けた手は褐色の肌をしていた。
「こんばんは、クリスさん」
「ヒューゴ!?」
 思わず大きな声を上げたクリスを手で制して、カラヤクランの族長は一歩足を踏み入れはにかんだ笑みを浮かべた。
「この天幕で合ってたんだ。よかった」
 のんきな言い草にクリスは眉を吊り上げた。
「まったくだ。下手に見つかってみろ、変な嫌疑をかけられて殺されたっておかしくないんだぞ」
「怒らないでくれよ。どうしてもクリスさんに会いたくなっちゃってさ……明日なんて待ってられなかったんだ」
 率直な言葉に頬が熱くなる。クリスが赤くなって俯いてしまうと、ヒューゴはそっと彼女の腰に腕を回して引き寄せた。
「久しぶり。元気そうだね」
「あ、ああ……」
 首筋をくすぐる吐息に居たたまれなくて、クリスは大きな翠の瞳から視線を逸らせた。いつまでたってもこの甘い空気には慣れることができない。
 揺れる灯りに二人の影が大きく映る。
「ヒューゴ、少し外に行かないか?ここだといつ誰に見つかるかわからないし……」
「え、いいの?もう寝るところだったんじゃないの?」
「いいんだ。大丈夫」
 クリスは軽く首を振った。明日も朝は早いし、夜明けまで何時間もないが、このまま短い再会で終わるのは惜しかったのだ。
 二人はこっそりと天幕を抜け出し、一頭の馬を騒がないよう細心の注意をして連れ出した。騎士団の野営地からしばらく離れたところにヒューゴの乗ってきた馬がいるというのだが、そこまでクリスが馬を操り、ヒューゴはその後ろに不機嫌な様子で乗っていた。他の者に気づかれないよう移動するには確かに慣れている人間が乗るのが一番良いのだろうが……彼のプライドからすると気に入らなかったらしい。
 カラヤ馬がいたのは草原に大きな岩が突き出しているところだった。歩けば結構な時間がかかる距離だ。クリスの胸が熱くなる。
「わざわざこんなところから歩いてきたのか?」
「ああ……まあね」
 岩の根元に寄り添って座り、ヒューゴは苦笑交じりに頷いた。彼女が近くまで来ていると思ったら居ても立ってもいられなくなって、お目付け役のジョー軍曹にも何も言わずに出てきてしまったのだった。鎧のないクリスの肩が草原の夜風に少し震えたのを見て取り、何か掛けてやれるものを持ってくればよかったと思う。
 ヒューゴはそっとクリスの肩を引き寄せ薄く色づいた唇に己のそれを重ねた。
「ひゅ、ヒューゴっ」
「ずっと会えなくて欲求不満だったんだ。これくらい許してくれよ」
 慌てた声を上げるクリスに相変わらずだな、と笑う。
 こんなに近い距離で座ることができるようになるまでにどれだけ苦労したことか。初めは遠かった心の距離が近づいて、それから身体の距離が近づいて。自分の余裕の無さから焦れば焦るほど、驚くほど無垢な部分を持っている彼女は引いてしまうのだ。そういう人だから。
 目元を朱に染めて見つめてくる彼女がとても愛しいと、大切だと思うから、少しずつ。
 それなのに二人の間にはいつも広い草原と森が厳然と存在していて、ただ顔を合わせるのもままならない。初めのうちはちょっとした冒険を兼ねてクリスに会いに行ったものだが、最近ではなかなか難しい。
 思えばあの頃は気楽だったものだ。仕事があるからとか立場があるからとか、なかなか会いに来てくれない彼女を薄情だと思ったこともあったが、いざ自分が族長を継いでみたらそんなことは考えられなくなってしまった。
 近況とか、他愛のないことを話して笑い合って……触れ合って。そうしたくてできなくて、もどかしさばかりが日々の中で募ってゆく。特に彼女は魅力的で、外見は美しくて中身はエキセントリックで、人を惹きつけずにいられない人だ。うかうかしてなどいられないのに。
「クリスさん、この間の手紙届いた?」
「ああ、届いた。族長というのも大変そうだな」
「騎士団長ほどじゃないと思うよ。クリスさんも忙しかったんだろ」
 実際、ここ半年ほどお互いに忙しかったのは今回の会談の段取りを組んでいたためだ。グラスランドに暮らす様々な民族がわずかながら和解の方向へ向かい始めたのはつい最近のこと。殊に仲の悪かったゼクセンとシックスクランがここ数年激しい戦をせずにきたのはヒューゴとクリスの尽力によるものが大きかったのだった。
「そんなことよりさ、手紙に書いた馬のこと。今日連れてきたのがそいつなんだよ」
 族長の就任祝いにチシャから贈られた馬が最近ヒューゴのお気に入りだった。素直だし、走れば速い。目を輝かせて馬を自慢するヒューゴに、クリスは優しい瞳で相槌を打った。
「私はカラヤ馬の良し悪しはよくわからないのだが……あなたが言うのだから素晴らしい馬なんだな。村で一番の乗り手と聞いているわ」
「クリスさんこそ、早駆けは得意なんだろ?パーシヴァルさんから聞いたよ」
 二人は顔を見合わせて吹きだした。どうやら噂の発信源は同じ人物だったらしい。
「よし、競走しよう!クリスさんとも一度やってみたかったんだ」
 ヒューゴは浮き立つ心持で遠くを指差した。地平の近くにぽつんと一本木が立っている。あれを目印にするつもりだった。
「この暗いのに?」
「もうすぐ夜も明けるよ。そうだな……ただ勝負するだけじゃつまらないから何か賭けようか」
 強気に笑って見せれば、案外負けず嫌いなゼクセンの騎士団長は乗り気になってきたようだった。
「いいわよ。何を賭けるつもり?」
 少しの間考え込み、ふと思いつくとにんまりしながらヒューゴは顔を上げた。
「俺が勝ったら……クリスさん、俺のこと100回好きだって言って」
「……は?」
 呆気に取られ、クリスが瞬きする。やがて言われたことを理解したのか白い頬が赤くに染まってきた。
「クリスさんからそういうことって、あんまり言ってくれないだろ」
「そ、そうか?」
「じゃあ今言ってみてよ」
 まっすぐに目を合わせると、赤い顔が更に真っ赤になった。金魚のようにぱくぱくと開閉する口からはしどろもどろに意味不明の声が漏れた。
「……え……あ……う……」
 ゼクセンの名物美人騎士団長は、昔から色事にはとんと疎かった。並み居るライバルを押しのけて、国や宗教や民族の違いを超えて、更には親友にまつわる感情のわだかまりまでも超えて彼女の心を射止められたのは奇跡に近かったとヒューゴは今でも思っている。
 おまけに自分は七つも年下で。本当に彼女が好意を寄せてくれているのやら、いつも不安にさせられてばかりだ。これくらいはしたっていいじゃないか、と心の中で強引に結論付けた。
「ほらね?だから俺が勝ったら必ず100回言ってくれよ。手紙でもいいから、毎日1回ずつ。約束だよ」
 気圧されたように顎を引いて、クリスは小さく頷いた。
「……わ、わかったわ」
 ヒューゴが満足げに立ち上がろうとするのを、クリスは厳しい声で「ちょっと待て」と制した。顔はまだ赤いが、強い色を宿した瞳を向けられてヒューゴはどきりとした。
「まだ私が勝ったときの条件を言っていないだろう?」
「あ、うん……」
「私が勝ったら、1000回私にキスをして」
「……え?」
 思わず聞き返したヒューゴに、挑むように指が突きつけられる。
「いいか、必ず毎日1回キスをするんだ。手紙じゃできないんだから、毎日必ず会いに来なくちゃいけないんだぞ」
「え……ええー?」
「前はよく遊びに来ていたんだから、来られない距離じゃないはずだ。それに不満なら私に勝てばいいだろう」
 確かにそれはその通りだが。
 馬鹿みたいにぽかんと口を開けていたヒューゴは、今の自分はよほど間抜けに見えるのだろうとぼんやり思ったが、訊ねずにはいられなかった。
「クリスさん……ひょっとして怒ってたの?会いに行かなかったこと」
「怒る?なぜ?あなたにはあなたの事情があって来られなかったんだ。私も会いにいけなかったし……怒ることじゃないだろう」
 彼女からはいつだってきちんと筋の通った答えが返ってくる。けれど本当は。
 ヒューゴは驚かせないよう緩やかな動作で顔を近づけた。
「じゃあ……寂しかった?」
 俺がいなくて。
 菫色の瞳を覗き込むとクリスはほんの少し眉を顰めたが、逃げ出そうとはしなかった。
「……あたりまえだろう?」
 私もあなたに会いたかったんだから。
 重なる吐息に紛れてしまいそうな微かな囁きをヒューゴは確かに聞いた。
 本当は、ほんの少し、彼女の心の奥を探れば、意地っ張りで寂しがりやのとびっきりの恋人が隠れているのだ―――
「言葉だけで満足できるなんて、ヒューゴはお手軽なんだな」
 ぽつんとその呟きが落とされたとき、勝負はついたようなものだった。



◆◆◆




 夜のしじまにほんの小さなノックの音。
 普通ならば聞き逃してしまいそうなその音にも、この部屋の主はしっかりと気づいていた。
 さっと立ち上がり部屋の隅の棚を探れば、驚いたことに棚が動き出し、裏側に秘密の通路が現れる。そこから顔を出したのは褐色の肌に華麗な文様の衣装を纏ったカラヤの少年だった。
「ヒューゴ、本当に来たのか……」
「もちろん。ブラス城の外だろうが中だろうが関係ないさ。約束だからね」
 少年はえいやっと背伸びしてクリスの肩を抱き寄せ、有無を言わさず唇を奪った。
「これで7回目のキスだね」
 にっこりと笑うヒューゴに、真っ赤になったクリスは返す言葉もない。
 カラヤの村からブラス城まで、馬を飛ばせば一日で行って帰ることができないことはないが、それでも結構な時間がかかる。カラヤで族長としての仕事をこなし、その上でゼクセン領まで往復するなんて、いったいどんな手を使っているのか。訊いてもヒューゴはなかなか教えてくれない。
「ヒューゴ……忙しいだろうに、無理はしなくていいんだからな」
 用意してあった紅茶を差し出しながら、クリスはなんとなく申し訳ない気分になる。
「無理なんかしてないよ。今はそんなに忙しいってわけじゃないし」
 今更どうしたの、とヒューゴは笑みを残したまま首を傾げた。最近の彼は何の気ない仕草が大人らしさを帯びてきて、クリスをぎくりとさせる。
「クリスさんが言ったんだよ?絶対に毎日会いに来いって」
 クリスは一度口を噤んだが、納得しかねる様子でヒューゴを軽く睨みつけた。
「おまえ、わざと負けただろう?最後にあんなところで減速するなんて不自然だ」
「そんなことないよ。たぶん……意識はしてなかったけど、俺の気持ちが馬に伝わっちゃったんだ」
 あの時、彼女がくれた言葉があんまり嬉しかったから。
 内心で叫びだしそうなほど浮かれていた自分に馬も呆れてしまったのかもしれない。
 ヒューゴは空になったカップを脇に押しやり、腕を伸ばして白銀の長い髪を指に絡ませた。
 滅多に聞けない彼女の甘いわがまま。数年前の自分だったら、どんな理由があっても彼女に負けるのは嫌だっただろうけれど、不思議と悔しくなかった。
「それじゃ……また明日来るよ」
「本当に無理はしなくていいんだからな?」
「大丈夫。俺がそうしたいんだから」
 指先に銀の流れを滑らせて、ヒューゴは立ち上がった。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい……好きよ、ヒューゴ」
 秘密の通路の入り口で、繰り返された言葉も今夜で7回目。
 暗い階段の下で入り口が閉ざされる音を聞きながら、名残惜しく立ち止まっていたヒューゴは人知れず溜息をついたのだった。
「あーあ……キスだけで満足できるなんて、クリスさんこそお手軽だよ」


 
 
 


 
 

 
33333HITでリク頂きました〜。
うひぃー!恥ずかしいーーー!!
ここここのカップルは!書いている自分が恥ずかしかったですよーーー!(悶絶)
お題は…「3の三年〜五年後の設定でゼクセンとクラン以外でお忍びで出会い熱いデート」でした。
どうでしょう。銀丸にしては結構リクに忠実にできたと思うんですけど(笑)

 
 

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