―――なんだかとても幸せな夢を見ていた。
◆◆◆
まっすぐに突かれた重い衝撃を上方にずらし、ユーナクリフは腰を落としてジョウイの胸元に潜り込んだ。
棍を叩き落すためにトンファーを跳ね上げたのだが、一瞬早く弧を描いた棍に進路を阻まれる。思ったよりも速い動きにユーナクリフは顔を顰め、お互いの武器がぶつかる衝撃を利用して飛び退いた。
地面を蹴りもう一度間合いを詰めようとするのを、ゲンカクの声が止めた。
「今日はここまでにしよう」
武器を下ろし、呼吸を整えながらユーナクリフはジョウイと目礼を交わした。
彼とこうやって手合わせするのは好きだ。青灰の瞳には先程までの鋭さは失せ、いつも通りの優しさが取って代わっていたが、高揚感の名残が見える。型の練習をしていたナナミも三節棍をまとめて近づいてきた。
ゲンカクが腰を上げると、三人は並んで頭を下げた。
「ありがとうございました!」
日課になっている午前中の鍛錬を終えた少年たちは風呂場で軽く汗を流した。
頭から水を浴びてから、ユーナクリフはジョウイの均整の取れた肢体をつくづく眺めた。細く見えてもしなやかで強靭な筋肉がついているのだ。その一件繊細そうな容姿のために、いまだに女っぽいだの腰抜けだのと揶揄する連中もいるが、それは彼の棍を受けてみたことがないからだ、とユーナクリフは思っている。
努力家なことに加えて生来のセンスがあるのだろう。ユーナクリフより後から修行を始めたというハンデなど、今やまったく感じられなかった。
「うーなんか悔しいなぁ」
「何が?」
「べーつーにっ」
この頃、ジョウイはぐんと背が伸びた。伸びたと言っても同年代の少年たちの中では小柄な方なのだが。先に成長期を迎えた幼馴染に、ユーナクリフは悔しい思いをしているのだ。
養父はそれでいいのだと言う。
「おまえはおまえなりの速さで成長すればいいさ。なに、きっと強い男になれるぞ。良いライバルもいることだしな」
とりあえず手近な目標は、義姉よりも背が高くなることだ。もうすぐ追いつくところなのだ。
髪の雫をふき取りながらジョウイは窓の外を眺めている。
「昼ご飯の前に、例の木のところに行ってくれないかな。いい天気だから外で食べようよ」
「うん!」
ユーナクリフは先程までの不機嫌などどこかへ行ってしまったかのように、満面の笑顔で頷いた。
待ち合わせの約束を交わして、ユーナクリフは玄関口でジョウイを見送った。
―――約束しよう、もう一度……ここで……
「……ノ、……ユノ……」
「ん……?」
揺り起こされて瞼を上げると、柔らかな金髪が目の前に落ちかかっていた。
ジョウイの後ろからナナミが覗き込んでいて、ユーナクリフが目覚めたことを知ると二人で目を見合わせてくすりと笑った。
「ユノったらちょっと待ってる間に寝ちゃうなんて」
「暢気だね、まあ君らしいけど。風邪をひくよ?」
ちょっと齢が上だと思ってまた子供扱いをする、と心中でむくれながら身を起こす。道場の裏の林で、ユーナクリフはお気に入りの古木の下を陣取っていた。
大きなバスケットを抱えたジョウイが身じろぐ度に、髪が木漏れ陽を反射してさらさらと光の流れを作る。煙るような色合いのそれは、気が付けば何時の間にか肩を越すほどに伸びていた。
「――――?」
ふと違和感を感じてユーナクリフは視線をさまよわせた。
「どうかしたのかい?」
「ええと……」
怪訝そうな顔で尋ねられても、思い出そうとすればするほど記憶が拡散してしまう。
「わかんないや、何か夢を見ていたんだと思うけど……」
「どんな夢?」
「よく覚えてない。でもすごくいい夢だったんだ」
ユーナクリフが首を捻っていると、ナナミがジョウイの顔にぶつかるのもお構いなしにバスケットの蓋を跳ね上げた。
「ぶっ……」
「それよりお昼ご飯にしようよ!わたしお腹すいちゃった」
ジョウイは大抵昼食は家に帰って取るのだが、今日はアトレイド家に勤めるコックに頼んでバスケットに詰めてきてもらったのだ。
バスケットの中には厚切りのパンに野菜のソテーやハム、それにまだ温かいスープが入っていた。ジョウイはまだぶつぶつと口の中でナナミに抗議していたが、既に姉弟の意識が美味しそうな昼食に移ってしまったと知ると諦めて苦笑を浮かべた。
パンにハムとソテーを載せようとしてジョウイの動きが止まる。
「ユノ……」
「ダメよジョウイ!ニンジンも食べなきゃ」
「……そういうナナミもほうれん草残しちゃダメだろ」
「……うー」
こらえきれずにユーナクリフが笑い出し、二人の腹いせにほうれん草とニンジンが山盛りになったパンが押し付けられた。
スープを取り分けた椀をユーナクリフに手渡しながら、ジョウイは伏目がちに切り出した。
「今日泊まっていってもいいかい?」
何気ないふりを装っているがこんなときは大抵、家で何か嫌なことがあったときだ。ユーナクリフはこっそりナナミと目配せをした。
大好きな親友と夜まで一緒にいられるのは嬉しいけれど、その裏には彼の傷ついた姿があるのだから、ユーナクリフは複雑な気分だった。
「それは全然構わないよ。でも……家で何かあったの?」
「別に何もないよ」
それで納得するようなユーナクリフたちではなかった。ジョウイは傷ついたことを隠そう隠そうとするから、食い下がって聞き出さないと慰めることもできやしない。
「違うよ、僕のことなんかじゃない。君たちのことだ」
「僕たちの?」
「そう……ひどいことを言われた……僕はもう慣れてる。でも君たちまで貶める権利なんかあの人にはないのに」
後半の消え入りそうな独白をナナミが遮った。
「なあんだ。そんなことなの?」
「そんなこと、じゃないよ」
暢気な声音にジョウイは顔を顰めたが、ユーナクリフもただ穏やかに笑うだけだった。
「親なんかいなくたってもう顔も覚えてないし、ナナミやじいちゃんやジョウイがいるし、ちっとも気にならないよ」
自分たちのことでなんて傷ついてくれなくていいのに。優しいジョウイ。
気にならない……といえば嘘になることは自分でも分かっている。
でも、そういう意味では自分は大層運が良いのではないだろうか。
街の人たちだって誰もが冷たいわけではないし、ゲンカクの家には不満などないし。なによりこんなに優しい親友がいる。ナナミは少々過保護気味だがそれは仕方がない。自分の姉として振舞うことで、家族の一員であることを確認したいのだろう。
血の繋がりという絶対的な絆がない以上、そうやって居場所を確認したくなるのだ。ナナミは今だ無意識で、気づいてしまったがためにユーナクリフは余計に反発心を煽られてしまうのだけれど。
なんとなく会話が途切れたまま、バスケットの食物はあらかた空になっている。
だからと言って気兼ねをするような間柄でもないが、こういうときにジョウイが思考の海に沈もうとするのが嫌で、彼の膝に体重を預けてごろりと寝転がった。ナナミもそれを見て悪戯っぽく笑うとジョウイの肩に寄りかかった。
彼に甘えながら、同じだけこの温もりが寂しい彼の慰めになればいいと思っている。ジョウイも「重いよ」と口では言いながらも邪険にされたことはない。
ひとしきり胃を満たして膝枕までしてもらっていると陽気が眠気を誘ってくる。
「眠い……」
「さっきも寝ていたじゃないか」
「だって気持ち良くってさぁ……」
すっかりジョウイの膝に懐いてしまった義弟に呆れた視線を送り、ナナミはばさばさと包みや食器をバスケットに放り込んだ。
「じゃあ、わたし道具屋さんに行ってじいちゃんのお薬貰ってくるから。ユノのことお願いね、ジョウイ」
ナナミは去り際に足しにはなるでしょ、とバスケットの下に引いていた大判のクロスをユーナクリフの肩にかけてくれた。
「二人とも日が暮れる前にちゃんと起きて帰ってきなさいよ」
それはジョウイまでつられて寝てしまうことを見越しての発言だろうか……
心の中でこっそりと笑って、ユーナクリフは眠りの世界へ意識を明け渡した。
◆◆◆
すうっと夜の冷気が頬を撫で、僕は目を覚ました。
一瞬ここがどこなのかわからなくなって慌てて見回すと、すぐ隣、息が掛かるくらいの距離にジョウイの顔があって心臓が跳ねた。
暗い部屋。窓から薄い月明かりが差し込んでいる。
白く澄んだ光に浮かび上がる細い髪は、ジョウイの肩や背中を覆っている。僕はひと房持ち上げて唇に当ててみた。
なにか夢を見ていた気がするのだけれど。思い出せない。
静かで綺麗な寝顔を眺めているうちにいいしれない不安が襲ってきて、僕はそうっとジョウイの頬に触れた。
その温かさをもっと確かめたくなって自分の頬を押し当てる。
細い首筋に情事の跡を見つけてどきりとする。
「…………ん……」
いけない、起こしてしまっただろうか?
後悔する意識と裏腹に心の底には早く目覚めて欲しいと願う我侭な自分がいる。
早く目覚めて。僕を見て。僕の名を呼んで、笑いかけて。
君の温もりが欲しいんだ―――。
ゆっくりと瞼が上がり、青灰色の瞳が僕を捉える瞬間。
君の瞳に僕だけが映っている。
「ユノ……!?」
あっと思ったときには遅かった。
温かいものが頬を転がり落ちたらもう止まらなくなって。
情けないけれど、僕は顔を覆って泣きじゃくることしかできなくなってしまった。
ジョウイはいつもの寝ぼけ眼も吹っ飛ばしてうろたえている。
「どうしたんだい、ユノ……悪い夢でも見たのか?」
「違うよ……そうじゃない……」
僕が泣き止まないのでジョウイは困った顔をして僕をぎゅっと抱きしめた。
「泣かないでくれ。君が泣いているとどうしたらいいか分からない」
それがあんまり困り果てた声だったので悪いと思いつつも僕は笑ってしまった。起き抜けに目の前で、いきなりわけもわからず泣き出されたら困惑して当然と言えば当然だ。
でも、本当は……どうしたらいいか分からないなんて嘘だろう、ジョウイ。
そうやって君が抱きしめてくれるだけで充分なんだ。
言ったことなんかないはずなのに、どうして知っているんだろうね。
「君がいてくれてよかったって、そう思ったんだ……それだけだよ……」
素肌から伝わる体温が優しくて、心地良くて、それが余計に涙を溢れさせる。
ひとりきりで眠った広い石造りの部屋じゃない。
今ここに、現実に、僕の傍に君がいてくれる。それだけでこんなにも。
泣けて仕方がないくらいに嬉しいんだ。
羽のようなくちづけが額に、瞼に降ってくる。
「泣かないで?」
「……大好きだよ……ジョウイ……」
「僕も君が好きだよ、ユノ……」
いつだって僕の居場所はここだけ。ここだけでいい。
―――ああ、なんだかとても幸せな夢を見ていた。
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