君の名前



 
 
 
 
 
 

 そうして奇跡は起こる。
 僕はこの日、ずっと望んでいた、たった二つだけの宝物をこの手に取り戻したのだった。
 
 











◆◆◆






 衝立の向こうからは規則正しい寝息と、時折むにゃむにゃと意味不明の呟きが聞こえてくる。
 僕の大好きなナナミ。弾丸のように僕たちに飛びついてきたあの時の表情は、きっと一生忘れられない。
『大丈夫?ケガは?病気とかしていなかった?寂しくなかった?』
 僕たちを揺さぶって答えようにも答えられないくらい質問責めにしながら、最後には『ごめんね』と『よかった』を何度も何度も繰り返し、あのナナミが顔をくしゃくしゃにして、とうとう盛大に泣き出してしまった。
 泣き疲れて眠ったナナミをベッドに運びながら僕たちは苦笑を交わして、そんな小さなことがたまらなく嬉しくて。
 本当は色んなことを三人で話したかったけれど、それどころじゃないほど僕たちは疲労していた。とりあえずは全部明日に持ち越すことにして、とにかくベッドにもぐりこむことにしたのだ。
 しかし。
 ……眠れない。
 身体は本当にくたくたに疲れていて睡眠を要求しているのに、どうしても眠れない。
 怖いのだ。
 眠って起きたらみんな夢でした、なんてことになったら。
 なんとなく可笑しかった。以前はそれを望んでいたこともあったのに。目が覚めたら、ひとりきりの広い石造りの部屋なんかただの夢で、朝の稽古のために道場からゲンカクじいちゃんの呼ぶ声が聞こえてくるんじゃないか―――なんて。
 僕は溜息とともに身を起こした。するとゲンカクじいちゃんの部屋からカタンと音がした。……ジョウイが眠っているはずの部屋だ。
「……ジョウイ?」
 ナナミを起こさないようにそうっと声をかけると、案の定戸の陰で長い金の髪が窓からの月明かりにきらめいた。
「ユノ、起きてるのかい?」
 囁く声は夜中のせいもあってか掠れて低く、なんとなくどぎまぎしてしまって、僕はそんな自分を内心で叱咤した。
「眠れなくて……ジョウイも?」
「うん……少し、外に行こうか」
 静かな声に導かれるように僕はベッドから降り、急ぎ足だけど足音を立てないようにジョウイに追いついた。
 外に出てみるとほんの少しだけ欠けた月はいっそう明るい。ジョウイは真剣な面持ちで僕を振り返った。月灯りに照らされた彼の肌は陶器のように白く美しくて、僕の心臓が跳ねる。
「ユーナクリフ、お願いがあるんだ」
「なんだい?」
「僕に新しい名前をくれないか」
 
 


◆◆◆





 意味がよく分からなくてぽかんとした僕を、ジョウイは静かに見据えている。
「……君は、名を捨ててしまっても、僕は僕だと言ってくれたね」
 僕は頷いた。名前が変わっても、失っても彼の本質が失われることはないと思ったから。僕たちがともに生きていくのに、名前などどれほどの重要性があるというのだろう。
 けれど、彼は小さく首を振った。
「でも……確かに失われるものもあるんだよ」
 なぜかそのまま彼が消えてしまうような気がして、僕は彼の服の裾を掴んだ。彼は僕の手を取って目を伏せた。
「名前というのは存在だよ。名を持たずにこの広い世界で生きていくことは人間にはできない。僕が僕としてこの世に在るという証明のようなものだ」
「でもっ……君はここにいるじゃないか!」
「今ここにいる僕にはもう名前が無いんだ。ジョウイ・ブライトという人間は死んでしまった。同時に僕も名を失った。けれど僕はジョウイ・ブライトの罪を負って生きていく。もう、生きることを選んでしまった。だから……だからこれから僕が生きていくために、僕に贖罪者としての新たな名を」
 僕の右手を取ったまま『彼』は僕の前にひざまづいた。僕が驚いてかがもうとするのを彼はやんわりと押し止める。まるで神聖な儀式のように。
 彼の言っていることは、僕にはよく分からないけれど。
「僕が……付けていいの?」
「君に生命をもらった僕だから、君に名付けてもらうのが一番いい」
 そう言って『彼』は綺麗に微笑む。
 ああ、この優しい笑みを僕はずっとずっと待っていた……。
 どこまでも優しくて責任感の強い彼。自分の罪を決してごまかしたりしない哀しいほどの潔癖さ。その名を、僕が選んでもいいというのなら。
 どこかでそんなのはずるい、と声がする。
 僕は彼の手を握り、熱い喉で詰まってしまったように出てこない声を押し出してその名を呼んだ。
 
 

「…………ジョウイ……」
 
 

「それじゃあ、変わらないよ?」
 途端に拍子抜けした顔の彼に、思わず笑ってしまう。
「いいんだよ。ジョウイ・アトレイドでもジョウイ・ブライトでもないただの『ジョウイ』……」
 それで君は君に戻る。
 僕が知っている―――僕の、ジョウイに。
 ジョウイ・アトレイドは僕の幼馴染の名前だった。本人は名家である自分の家を好いてはいないようだったけれど、それでも名乗るときには必ずアトレイド家を背負っていた。彼にとってそこにはきっと捨てられないものがあったのだろう。
 ジョウイ・ブライトは今はなきハイランド国の最後の皇王の名前。自分の周りでは、倒すべき敵国の象徴たる名前だった。誰かが憎々しげにその名を口にするとき、僕の心はきりりと痛んだ。
 だけど僕にとってはいつだって、そんなことは全部関係なくて。ただ君は僕の知る君だけ。
 

 ただ、ジョウイ、と。僕はそう呼んだことしかない。
 

 だからもうひとりで行かないで。君がその名に罪を負うというのなら、僕だって自分の名にたくさんの罪を背負っている。
 僕の名のもとにたくさんの命が散り、それでも僕を信じてくれた人たちを裏切り続けていたこの想い。
 ジョウイ。親友で家族で……それ以上に、何よりも大切なひと。
 君の名前を呼べないことが、とても辛かったよ。

「ジョウイ……ジョウイ……」

 繰り返し呼びながら僕はたまらなくなって、ジョウイの頭を抱きしめる格好になってしまった。
「ユノ……?」
「馬鹿、顔上げんなっ」
 ジョウイは心配そうな声だったけれど。
 だって、こんな顔は……ちょっと見せられたもんじゃない。
 そのままの格好で動けないでいると、ジョウイは僕の腰に腕を回してしっかりと抱き返してくれた。
「ありがとう、ユノ」
「……いい名前だろ」
「うん」
 
 
 
 
 
 
 

 ようやく落ち着いて顔を見せられるようになったので二人で家の中に戻ってみると、ナナミが僕のベッドにしがみついていた。顔を上げたナナミは大きな目いっぱいに涙を溜めていた。
「……よかっ……夢……かと、思っちゃった……」
 僕たちは慌ててしまって、すまない気持ちでいっぱいになって、口々に謝りながら彼女を抱きしめた。
 ナナミも怖かったんだ。この家でひとりで僕たちを待っていたナナミ。
「ごめん、ナナミ……」
「ばかぁ……どこ行ってたのよぉ……」
「ごめんね。ここにいるよ。どこにも行かない」
 そして僕は気がついた。腕の中のナナミは、いつの間にか以前よりずっと小さい。
「ジョウイ……」
 どうしてかうろたえてしまった僕が探るように呼ぶと、微笑んだジョウイの腕が僕にも伸びてくる。その腕が以前よりも痩せたことが分かってしまって、僕は泣き出しそうになるのを懸命に堪えた。
 もうなりふりなんか構っていられず、僕たちはくっついて眠った。柔らかなぬくもりにようやく意識が沈みはじめる。
 
 
 

 本当は分かっているんだ。君をどんな名で呼んでもあの頃のようには戻らないということを。
 過ぎた時間の中で君が自分に課した罪が消えないように、僕の想いもまた変わってしまった。
 新たな名のもとに、それでも罪を選んで背負う君。
 僕の知るたったひとつの名をあげるから、どうか―――もうひとつだけ選んで。
 
 
 
 

 僕を。
 
 
 


 
 



 
やったね、ようやくジョウ主話です!
でもうまくまとまらなくて…なんでこう読解力が必要な文章ばかりかな(反省)
銀丸のイメージでは、ふたりがらぶらぶになるのって戦争終結後なのです。
しかも主人公は戦争中に恋心を自覚。
ジョウイは…………どうなんだろ。ヘタするともっとずーっと後だったりして。

 
 

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