剥離



 
 
 

 裏切りとは、約束を違えること。味方だと信じてくれた人たちに背くこと。
 

 遠くから聞こえる剣の音と怒号。
 扉をするりと開くと、回廊を息を切らせて走ってくる少年と少女がいた。
 ユーナクリフとナナミ。僕の幼馴染。なによりも大切な、たいせつな人たちだった―――。
 僕は、これから彼らと対峙し、戦わなくてはいけない。いいや、これは僕の意志だ。僕が、望んで彼らから離れ、そして敵対する道を取った。
 心が妙に凪いでいる。現実感がないのだ。ロックアックス城の整った石造りの壁が陰鬱に目に映る。
「どこへ行くんだい、ユーナクリフ」
 それでも僕は意識を集中して、できうる限りの硬い声を出した。「ユノ」と親しげに呼ぶことを僕は自分に禁じた。これから殺そうという相手に親しみなど、おかしいではないか。
 紋章は……たぶん、僕ひとりではもう保たない。獣の紋章を抑え、同盟軍を倒し、皇王としてありつづけるには、紋章をひとつにするしかない。
 僕の「黒き刃の紋章」と、彼の「輝く盾の紋章」。
 ふたつに分かたれた紋章は、ひとつになりたいと疼いている。
 そのために僕は、ユーナクリフを殺さなくてはいけない。紋章がひとつになるのは、片方の生命が尽きようとしたときでなくてはならないのだから。
 どちらにしてもユーナクリフは同盟軍のリーダーだ。今でも信じられない、どうしてそんなことになったのか。確かに彼がリーダーになるには肩書きは充分だが、若すぎるじゃないか。こんな子供をリーダーに据えるなんて、同盟の奴らは何を考えているんだ。
 ふと、僕は心中で笑った。
 年齢で言うなら僕もあんまり変わらないか……。
 でもユーナクリフが自分からリーダーになんてなったわけがない。彼はいつだって控えめで、僕が呆れるくらい目立つことを嫌う奴なのだ。
 けれど、もうその経緯なんて聞いても仕方がないだろう。
 ユーナクリフはとうとうここまで来てしまった。何度も逃げてくれと言ったのに、彼らは逃げてくれなかった。それはつまり、彼らは僕を選んではくれなかったということだ。ハイランドが勝つためには、同盟軍リーダーは殺さなくてはならないのだ。
 僕がユーナクリフを殺したら、いくらナナミだって僕を許さないだろう。そうしたら、仇として僕を殺そうとするだろうか。もしかしたら同盟軍は、次のリーダーに彼女を据えようとするかもしれない。そうしたら……僕はナナミまで殺さなくてはならないのか。
 ぼくの手で、彼らを。
 目の前に彼らがいるというのに、遠くから見ているような現実感のなさに身震いがする。けれど、どこか甘い心持ちがするのは、それが身勝手で感傷的な欲望の充足への近道だからだ。
 他人を、自分だけのものにしたいという欲望。
 僕だけを見て欲しかった。必要だと言って欲しかった。
 自分の冷たい家に帰るとき、どれほど彼らを羨んだだろう。僕には彼らしかいないのに、彼らはそうじゃない。僕がいなくたってあの家で笑っていられる。それが妬ましかった。
 自分の弱さに吐き気がする。僕はひとりでは存在することすら満足にできないんだ。
「ジョウイ……君とは戦いたくない……」
 ユーナクリフ、まだそんなことを言うの?君がナナミと逃げてくれていれば、僕は君を殺さずに済んだのに。でも君は同盟軍で大切なものを見つけたんじゃないか。僕よりも彼らを選んだんじゃないか。 同盟側の人間たちへの嫉妬心に気付き、自嘲する。きっかけを作ったのは自分のくせに。
「ユーナクリフ、いくよ」
 懸命に僕を見つめ小さく首を振る彼を無視して、僕は剣を握りなおした。
 よく研がれた剣はシードたち将軍が持つのと同じ、実用一点張りのものだ。華美な装飾などいらない。これは血に染まるためのものだから。
「ユノ!ジョウイ!!」
 突然のナナミの叫びにはっとした。瞬間、失っていたはずの……おそろしいほどの現実感が襲ってきた。
 そして見たものは。
 

 ユーナクリフと……僕を、守ろうとするナナミ。
 そのナナミを守ろうとするユーナクリフ。

 僕の手が届くには……遠すぎて……

 やめてくれ。
 殺さないでくれ。
 彼らだけは―――
 滑稽だ。ついさっきまで僕自身が、彼らをこの手にかける覚悟をしていたというのに。
 必死の祈りは天に届かず、ユーナクリフの憎悪の目を僕ははじめて見た。
 
 
 
 
 

「わたしは大丈夫……大丈夫だから……ケンカしちゃ、ダメだよ……」
 何が大丈夫なんだよ、ナナミ。そんなに血を流して。こんなときにまで何を言っているんだよ。
 今すぐ駆け寄って、抱き上げて叫びたかった。
 力なく投げ出された手を取ってやりたかった。真っ青になっているユーナクリフも、抱き締めてあげたかった。
 右手にある剣を放り出そうとして愕然とした。そんなことは僕には許されていないと気がついたのだ。
 僕は何を考えた?彼らの傍に行きたいだって?
 彼らを裏切った僕には、もう彼らの温もりに触れる資格なんかない。
 僕はきつく目を閉じた。
 心臓が、痛い。
 それより早く治療しなくては、ナナミは……
「ユーナクリフ……ナナミを頼む……」
 ユーナクリフの肩がぴくりと揺れる。その顔が上げられる前に、僕は背を向けた。振り返ればきっと僕は耐えられない。この手の剣を捨てて彼らを抱き締めてしまうだろう。
 彼らの姿を目に入れないように、僕は扉を閉め、苦い息を吐いた。手が、身体が震えて、思い通りにならない。振り切るように拳を固め、すぐ横の壁にたたきつけた。
 もしここにもうひとり僕がいたら、僕はためらいなくそいつを殴り倒していただろう。
 なんてことだ。ここまできて。
 手間が省けたと、笑えばよかったんだ、僕は。どうせいつか殺さなくてはいけなかったのだと、僕が手を下すまでもなくナナミが倒れたと。そうすればユーナクリフは怒るだろう。僕の望みどおり僕と戦ってくれるだろうに。
 でも、彼らだけだったんだ。
 彼らしかいなかったんだ。
 僕に居場所をくれるのは。無条件に微笑んで、ここに在ることを許してくれるのは。
 それをどうして捨てることなんかできるんだろう。
 失いたくない。僕の弱さがこんなに彼らを傷つけたのに、やはり手放すことなんかできない。
「すまない……ユノ……」
 昔から、君たちが大好きだった。だからこそ君に負けたくなかった。君の優しさに頼りきりの、弱いままの僕ではダメだったんだ。必要とされたくて、頼りにされたくて、必死に修行して、君に追いついたと思った。
 けれど、世界には僕の手では大切なものを守りきれないような、非情な力がある。無力感に絶望しかけた僕にユーナクリフは静かに言ったのだ。
『僕は君の味方だよ……』
 その言葉がどれほど嬉しかったか。そしてどれほど……。そうやって君は僕の牙を取ってしまうんだ。君なしではいられなくしてしまうんだ。
 僕の世界の中心にいた君たちを超えるには、世界そのものを屈伏させるしかなかった。だからルカ・ブライトの持つ強烈な力に魅せられた。力があれば全てが手に入れられると思った。そう思ったのに。
「……僕の完敗だよ、ユノ……」
 僕にユーナクリフを殺すことなんて、できるわけがないんだ。
 こんな簡単なことを今ごろになって思い知らされるなんて。
 君たちが大好きなんだ。くだらない嫉妬とか自尊心に惑わされても、どんな誹りを受けても、それだけは変わりようがない。
 死なないで、ナナミ。もう一度、お日さまみたいな笑顔を見せて、僕を叱り飛ばしてくれ。君たちには誰よりも幸せになって欲しいんだ。そのために僕の全部を捧げても構わないから。
 国も、紋章も……生命も全部。
 

 クルガン、シード……本当にすまない。許してくれなんて言わない。
 長い廊下を駆け抜け、伝令を呼んだ。
 ハイランドを、同盟軍を、ユーナクリフたちを、そして僕自身を裏切った僕。
 僕は、こんな愚かな王を信じてくれたやさしい人たちをも裏切るのだ。

 



 
 

BACK