風が木の葉を渡る音と、どこかで鳥の声がする。
「ユノ?」
立ち木の陰から声をかけると、振り向いた額に金冠が揺らめく木漏れ日を反射してきらめいていた。
「やっぱりここだと思ったよ」
「よくわかったね」
ジョウイは木に寄りかかって座っているユーナクリフの顔を少し眩しそうに見つめ、それからその隣に腰をおろした。
「道場の裏の……あの木に似ているからさ。君もそう思ったんだろう?」
林の間にぽっかりと空いた空間があり、大きな太い木がそこの主のように居座っている。開けた視界の先にはちょっとした崖があり、青空と遠くの峰が眺められる。実際にはキャロの老木よりは林の奥まったところにあるのだが、少し坂になった先を降りて行けば道場の古ぼけた屋根までが見えてくるような錯覚に陥りそうだ。
ユーナクリフは嬉しそうに頷いた。ジョウイが道場に来たとき、親友がどこにも見つからないときにはあの木のところに探しに行くのがいつもの習慣だった。
「こうしてると昔に戻ったみたいだよね」
たっぷりと暖かさを含んだ日差しの中で、ジョウイは胸に氷を落とされたように感じた。
ユーナクリフはくつろいだ様子で手足を投げ出して座っている。答えが返ってこないのをさして気にも止めずに、背中を木の幹に滑らせてジョウイにもたれかかってきた。
肩に乗せられた髪からは太陽を含んだ草の匂いがする。
重いと文句をいっても「ちょっとだけだから」などと言って、結局はうたたねを始めてしまったりするのだ、この幼馴染は。
それでも本当にそれが嫌だったことなどなくて。
胸の氷は徐々に熱く蠢く塊に変わってゆく。
全幅の信頼が嬉しくて、可愛くて、いとおしかった。
そんな昔になんか。
「……戻れないよ……」
押し殺したような低い呟きを怪訝に感じて、ユーナクリフはジョウイの顔を覗き込んだ。
「ジョウイ……どうかしたのかい?」
気が付いたらユーナクリフの腕をきつく掴んでいた。
純粋に驚きだけがその顔に浮かぶのを知り、ジョウイの中で熱い塊が弾けた。
彼は恋をしたのだと言った。この僕に。
どうしてそんなことができるのだろう。
どうしてそんなに無防備に。
そんなに信じきった目をして。
憎しみにも似た激情の波に呑み込まれて、ジョウイはユーナクリフを引き倒した。
この場所を街に沿う林の中に見つけたとき、ナナミと三人で言葉をなくした。
壊れた建物や荒れた畑、夫や息子を失った女。そんな戦争の跡を見るたびにジョウイが悲しそうな顔をするのが見たくなくて、ユーナクリフはできるだけ早くハイランド地方の外に出てしまいたかった。今滞在している街はトランに向かう国境の近くで、ハイランドの中央から遠ざかるにつれ戦争の爪跡は徐々に薄れてきていた。
のどかな街の雰囲気に身を浸していると、あの日々が夢だったのではないかと思えてくる。
けれど、反対にジョウイは考え込む時間が増えたような気がした。
なにか気晴らしにならないかと、ジョウイならきっと探しにくるだろうと踏んでユーナクリフはここで待っていたのだ。
懐かしい風景の中で。
はじめは、何が起こっているのか分からなかった。
無理やりに身体を開かれて、痛みに上げた悲鳴は梢に吸い込まれる。
苦しくて伸ばした手は空を掴み、荒れた息の下でもつれた舌はちゃんと名を紡げなくて、それが恐慌に拍車をかけていた。
全身が揺さぶられるような感覚にユーナクリフは目を閉じた。
青灰の瞳が昏い色に染まっているのを見るのが嫌だった。何も映さずに乱れた雨の湖面のような瞳だと思った。
ジョウイに犯されたのだ……と気が付くまで、嵐が過ぎ去ってからもしばらくの時間が必要だった。
頭の下には申し訳程度に何か布が敷かれてある。手足を投げ出して横たわったまま視線を巡らすと、少し離れたところで頭を膝に押し付けてジョウイがうずくまっていた。
「……ジョ……イ……?……」
喉ががらがらに枯れていて囁くような声しか出なかったが、ジョウイはびくりと肩を震わせ、ゆるゆると顔を上げた。一瞬泣いているのかと思って目を凝らしたが、ただ頬がひどく蒼ざめている。
何を言えばいいのか分からなくて、お互いに見つめ合うしかない。
ユーナクリフはまっ先に浮かんだ疑問をなんとか声にした。
「ジョウイ、ど……してそんなところに……いるの……?」
指先を伸ばしてジョウイに触れようとしたのだが、身体中が痛くてうまく力が入らなかった。緩慢なその動きから逃れるようにジョウイは身じろいだ。どうにか身を起こそうとするユーナクリフを恐れるように両手で顔を覆ってしまう。
くぐもった声が指の間から漏れてくる。
「許さないで、ユーナクリフ。僕を許さないでくれ……」
不意に、肺が痛みを覚えるほどに怒りが湧き上がってきた。
ユーナクリフは掠れた喉で唸った。
「……許せない……」
うなだれていたジョウイは、ユーナクリフが続けた言葉に耳を疑った。
「許せないよ。君がそんな風に考えていること……君を苦しめているすべてのものを」
「どうして君はそうなんだ」
遮るようにジョウイは叫んだ。
「僕が何をしたのか、自分が一体何をされたのか分かっていないのか!?」
彼は自分が今どんな姿をしているのかも分かっていないのではないかと思った。衣服は乱れ、押さえつけられていた手首は痣になっているし、腿の内側は汚れて所々に赤いものが飛び散っている。とても見ていられなくて、ジョウイは目を逸らした。
優しさを何度も仇で返して。
信じてくれた人をすべて裏切って。
それでもまだ飽き足らない欲望を彼に押し付けて。己の浅ましさに眩暈がしそうだ。
ユーナクリフもナナミも、本当なら自分などと一緒にいるべきではない。自分に彼らを縛り付ける権利なんかない。あの地に歓迎してくれる仲間達が待っている。
それなのに自分はどうだ。
大切なものを傷つけることしかできないなんて。傷つけて、きっと彼を駄目にしてしまう。それなのにこのまま彼の重荷になり続けるなんて。
こんなのはきっと恋なんて言わない。
こんなのはきっと―――妄執と呼ばれるのだ。
「僕は君にそんな風に言ってもらえるような人間じゃない……」
「ジョウイ……!」
「君は……君は優しすぎるよ、ユノ……」
そのことが一層自分を惨めにする。惨めで、悔しくて、そしてそんな自分がどうしようもなく嫌いだった。
ユーナクリフは苦々しい思いで首を振った。
「違うよ。僕は優しくなんかない」
優しすぎるのはジョウイの方だ。
優しくて優しくて、そしてとても勝手だ。自分を愛してくれるけれど、ちっともこちらを向いてはくれない。
こんなに傷ついているのに癒されようともせずに他人に手を伸べてばかりいる。あの日々からは遠い風景の中にあっても罪から目を逸らすこともできない。
「ジョウイ」
腕を差し出すと、ジョウイは信じられないものを見るように凝視した。
ユーナクリフは諦めず、腕を下ろそうとしない。
「怖がらないでよ。僕から逃げないで」
辛いなら縋ればいい。
振り向けばここに僕がいるのに。いくらでも求めればいいのに、それすら彼は彼自身に許そうとしないのだ。
「君に犯されるくらいなんだって言うんだよ」
富も名声も権力も、平和すらも。君が望むのなら獲得してみせようと思うのに。
「僕のこと好きだって言ってよ!ジョウイ!」
凍りついた時間が過ぎる。
ようやくジョウイはのろのろとユーナクリフに近づき、上半身を抱き起こした。鈍い痛みに顔をしかめながら、その時になってやっとユーナクリフは自分の頭の下に引かれていたのがジョウイの上着だったことに気がついた。
怒りたいような泣きたいような気持ちになってジョウイの肩を抱きしめる。ジョウイは一瞬身体を固くしたが、おずおずと抱き返してきた。
「……好きだよ……ユノ」
まるで懺悔するような声音だった。
「君のことが好きなんだ……」
「うん……僕も君のことが好きだよ」
ジョウイは腕に力を込めて言い募った。
「どうすればいい?僕は君のために何ができる?」
ユーナクリフは唇を噛みしめた。
どうして認めてくれないんだろう。どうして僕の声を聞いてくれないんだろう。
ジョウイが何かしてくれるから好きなわけではないのに。自分が彼を好きでいることが何かの間違いだとでも思っているのだろうか。
好き。大好き。愛している。背を向けてしまった相手にはどれだけ繰り返しても伝わらない。
長い沈黙の中でユーナクリフは思いを巡らせ、ゆっくりと瞬いた。
「……欲しいものがあるんだ。ジョウイは僕が欲しいもの全部持ってるから」
ジョウイは怪訝な顔をした。思いつく限り自分が持っているものなど何一つないのだが。
「なにが欲しいんだい?」
「ぜんぶ。君をひとり、まるごと全部」
どこかうっとりと告げるユーナクリフに、ジョウイは絶句した。
「僕の傍にいてよ……ジョウイ……」
子供じみた仕草でしがみついた手にジョウイの手が重ねられたが、すぐに力なく離れてしまう。
「……でも僕は……きっとまた君を傷つける……」
ジョウイの顔が泣き出しそうに歪む。ユーナクリフは彼の胸に顔を押し付けた。
君はそれが怖いんだね。それでも。
「それでもいい」
それでも、手放せない。
彼を解放できない。身勝手な我侭。
「君がどんな人間かなんてどうでもいい。僕が欲しいと思うから……それだけじゃいけないのかな?」
「……ユノ……」
腕の中に温もりを感じながら、ジョウイは傍らの木を見上げた。
幼い時間を過ごした風景によく似ていた。
ただ好きだと思う心が理由になりえた日々―――
これが罰なのかもしれないと思った。
またいつか彼をひどく傷つけてしまって、もうおまえなど要らないと言われるのかもしれない。いとけなかった瞳に憎しみが宿るのかもしれない。戦えば今度こそ始まりの紋章は彼の右手に宿るのかもしれない。その時が来たらきっと狂うほどに辛くて、けれどその痛みこそが。
身体を離すと、ユーナクリフは息を呑んで幼い迷い子のように寄る辺ない表情で見上げてきた。
ジョウイは安心させるために微笑んでそうっと柔らかなキスを額に降らせた。
「傍にいるよ……ユーナクリフ、君が望んでくれる限り……僕は君のものだ」
そう言って久しぶりに―――約束を結んだ。
ジョウイの背におぶさりながら、ユーナクリフは彼の笑みから寂しさの翳りが消えないことに苛立ちを募らせていた。
彼を望まなくなる日が本当に来ると思っているなんて―――ずっと昔からジョウイは僕の憧れだったのに、自分にその価値がないと思っているなんて。
どうしても彼は赦されることがないのだろうか。自身に刃を向けて、この先もずっと罪を刻みつけて生きてゆくのだろうか。誰かに愛されることすら自身に禁じて。
それで誰かが幸せになれるのだろうか。
誰かが幸せになるために、彼の犠牲が必要だというのか。
許せない―――そんなことは許せない。
どんな正当な理由があったとしても、例え彼が苦しむことで世界中の人が幸せになれたとしても。彼を責め立てるすべてのものが許せない。
我侭でも、身勝手でも、誰にも許されなくても、どうしてもどうしても彼が欲しい。
「……ね……」
「え?何か言ったかい?」
「ううん。何も」
僕が優しいなんてとんでもない思い違いだ。
許されるよりも、責められた方がよほど楽なこともあるということを知っている。自分の傍にいる限り、彼は癒されようとする彼自身に罪悪感を抱きつづけるのだろう。
でも手放したりなんかできない。
(ごめんね、ジョウイ……)
老木は依然として枝をそよがせているだけだった。
いつかもう一度この風景の中で、なんの憂いもなくまどろめるだろうか。
この人を守りたいと、切に思った。