時は江戸の昔でございます。
月のない真っ暗な夜のこと。
川べりにひっそりと建つ剣術道場の戸を叩く者がありました。
戸を開けたのは老境に差し掛かったひとりの男。名をゲンカクと申します。元は名のある大名に仕える藩士でしたが、故あって今は江戸の街の隅っこで門下生もほとんどいない寂れた道場を開いております。
ゲンカクは夜遅くの来客の正体が分かると、驚いた顔をしました。
「ハーン!ハーンではないか。よくここが分かったものだ……」
夜の闇に紛れるように立っていたのは、ハーン・カニンガムその人でした。
今でこそ将軍家剣術指南役を務めるハーンですが、その昔ゲンカクとは幼友達だったのです。しかしゲンカクが郷里を離れて十年以上、顔を合わせるどころか、居所すら知らせていませんでした。
再会の喜びも束の間、ハーンは辺りを警戒しながら戸の内側に身を滑り込ませました。その腕には、大事そうに乳飲み子を抱えております。
「突然ですまないな、ゲンカク……おまえを親友と見込んで頼みがある。詳しくは話せないが、この子を引き取ってもらえないだろうか」
ゲンカクは更に驚きました。覗きこんでみると、生まれて一月にも満たない赤ん坊がすやすやと眠っています。
「一体どういうことなんだ?両親はどうした」
「母親は私の家で働いていた女だが、この子を産んですぐに死んでしまった。……父親の名は言えん」
重々しい口調になにか深刻な事情があるのだと察して、ゲンカクはそれ以上の詮索をやめました。そしてゆっくりと頷き、赤ん坊を受け取りました。
「わかった、この子はわしに任せろ」
「すまない……よろしく頼む」
ハーンは道場に上がろうともせずに、再び闇に紛れるようにして急いで立ち去ってゆきました。その後姿が消えるまで見送って、ゲンカクは戸を閉めました。
赤ん坊はよく眠っています。
「まだ名も付いていないのか。そうだな……ユーナクリフと呼ぼうか」
なだらかな額を指先で撫でてやると、口元がほんの少し笑ったように見えました。と、突然奥から別の赤ん坊の元気な泣き声が聞こえてきました。ゲンカクは数日前、身寄りをなくした赤ん坊を拾ってきていたのです。
「おお、ナナミか。すまんすまん。そう泣くな。ほれ、おまえに弟ができたんだぞ……」
急に二人の子供を持ったゲンカクは先の大変さを思いました。大変ですが、楽しくなるとも思いました。
よっぽど子供好きだったんですね。
さて、年月が過ぎて十六年後。
いづれの将軍の代か定かではありませんが、病のためにデュナン藩の藩主が急逝してしまいました。藩内は大慌て。困ったことにこの方、前の藩主の一粒種だった上、ご正室との間に生まれた男の子以外に子はなく、その長男も夭折……つまり、次の藩主を務めるべきお子様がいなかったのです。
デュナン藩十万石。お家断絶ともなれば大変ごと。家臣の中にはこの機会に藩の乗っ取りを考えるものもいたりでご家老は頭の痛いことになっていたのでした。
名家でもあり、先代将軍の腹違いの弟君が近縁に当たることから、その息子トリスラントが藩主にと薦められました。しかし権力志向があまりないらしく「やだよ」の一言で追い返されてしまいました(この辺裏設定があったのですが面倒なので割愛。)江戸でのんびり気ままに暮らしているのが性に合っているようです。
そんなこととは無関係に、ユーナクリフと義姉のナナミはすくすくと丈夫に育っておりました。
自分の出生は知らなくとも悩んでいる場合ではありません。厳しくも愛情豊かな義父が一昨年他界し、道場を切り盛りしていかなくてはならないのですから。
道場の門下生はたったの三人。師範は居らずに師範代のユーナクリフとナナミ、それにジョウイという少年だけでした。
ジョウイは貧乏藩主アトレイド家の長男ですが、先妻の息子で父親の愛情が薄く、江戸の下屋敷に住まっておりました。上屋敷には今のご正室とその息子が住まっております。
幼少の頃のジョウイは寂しい思いをして暮らしておりましたが、ゲンカクの道場を通りかかったときに修行中の幼い姉弟と出会い、以来道場に通い続けております。今では年に数度会うか会わないかの家族よりも家族らしいと思っているのでした。
ユーナクリフと親友の一線を越えてしまったのはそう昔のことではありません。
気がついたら……と言うのがふたりの認識でした。
不幸中の幸いというか、災い転じてというか。ジョウイは藩主の後継ぎに望まれているわけではありませんでしたし、ユーナクリフの方はいざとなればナナミもいるし、あまりそういうことを深く考えない性質だったので、甘くも幸せな日々を送ることができました。
ところが、ある日のこと。
いつものようにジョウイが修行のため道場に行くと、ユーナクリフは出てきませんでした。代わりにナナミが、見知らぬ男がユーナクリフを訪ねてきて、話しこんでいるのだと教えてくれました。
「それがねー、すっごく怪しいの!いかつい雰囲気で、頭巾で顔を隠してたりして。ユノに何の用だって言うのかしら」
「誰だろう……なんだか嫌な予感がするよ」
「えぇ〜やめてよ変なこと言うの」
心配性のふたりは気になって、修行も手につきませんでした。
やがて来たときから怪しげだった男は、帰るときも怪しげに去ってゆきました。人目につかないよう裏口から出て行く男の立ち居振舞いから、物陰から伺っていたジョウイは地位のある人間だと見当をつけましたが、それがどんな用件で道場を訪れたのか皆目分かりません。
道場に入ってきたユーナクリフは、見るからに機嫌が悪そうでした。
「どうしたの、ユノ?あの人なんなの?なんて言われたのよ」
訝しげな二人の視線に、ユーナクリフは憮然とした顔でぼそっと呟きました。
「僕、こないだ亡くなったデュナン藩主のご落胤なんだって」
「…………はぁ!?」
まさに晴天の霹靂。
ナナミもジョウイも開いた口がふさがりませんでした。
ユーナクリフが言うことには、訪ねてきた男は若いながらも城代家老を務め、やり手と評判のシュウでした。デュナン藩は、多くの藩が財政難を抱えて喘いでいるこのご時世に、この人の金策のおかげで黒字財政なのです。地位があるどころの話ではありませんね。
先代のデュナン藩主はハーン・カニンガム邸を訪問した際、奉公していた女を見初めて関係を持ったのです。ハーンはゲンカクと前後して亡くなっておりましたが、シュウが関係者に片っ端から問い質したところ、男の子がひとり生まれたことをつきとめました。
「その子供こそ、ユーナクリフ殿、貴方なのです」
シュウは言いました。
藩主は女を側室に迎えることを望んでいたが、女は身分が低く、更にご正室が嫉妬深い方であったために実現しなかったこと。女は子供を産んですぐに死んでしまったということ。その頃ご正室は身籠っており、好いた女の子供を余計な争いごとに巻き込みたくないと思った藩主は、ハーンに頼んで子供を隠させたのだということ……
「……ベタい話だよね」
ユーナクリフが話しを締めくくろうとすると、ナナミが飛びかかりました。
「そ、そ、それでどうするの!?ねぇ!!ま、ま、まさかユノが殿様になるの!!?」
「……◎×%*△@◆……!……」
殿様になるかもしれない少年は、お姉ちゃんにがっくんがっくんと揺さぶられて答えようがありません。
「ナナミ、ナナミ!ストップ!!」
ジョウイに羽交い締めにされてようやく弾丸娘は止まりました。いまだに胸倉を掴まれたまま、ユーナクリフは目を回しつつもきっぱりと言いました。
「ならないよ殿様になんて」
「ホントね!?」
「うん」
「あーびっくりした」
がこん。
「…………」
急に手を離されて床に思いっきり頭を打ち付けている幼馴染に、ジョウイは気の毒そうな視線を送っていました。ナナミは気にするでもなく「やだ、そろそろお夕飯の支度しなくっちゃ!」と台所に飛び込んでいきました。……ま、いつものことですが。
「大丈夫かい、ユノ?まったくナナミってば……いくら殿様の息子だからと言っても、まさかいきなりユノを藩主に据えるなんてことあるわけ……」
ジョウイはユーナクリフを助け起こしながら笑おうとしましたが、次の言葉がそれを遮りました。
「あのシュウとかいう人はそうしたかったらしけど」
「……なんだって!?」
デュナンは今、子供がいなくてお家断絶の危機なのです。それにしてもシュウさんって意外と忠義者ですね。
「じゃあ、デュナン藩主の家を継ぐのかい?」
「だから継がないってば。断ったよ」
今度は揺さぶられなかったので、あっさりと答えることができました。
「いきなり大名なんてピンとこないし、あんまりなりたいとも思わない……」
しかしジョウイは納得のいかないような顔をしています。出世とは縁遠いところにおりますが、持ち前の正義感でご政道を案じているのでした。
「でも……いつまでも藩主不在のままではいられないし、このままでは富と権力に目の眩んだ輩がどんな動きをするか分からない。国政は不安定になってしまう……」
腐っても藩主の息子、やはり気になるものです。
それより、このままでは彼はナナミお手製の夕御飯を食べることになるのですがいいんでしょうかね。
「そういう理屈もわからないではないけど、でも……でも僕が藩主になったら、きっと君とは一緒にいられなくなるんだよね」
ユーナクリフはジョウイの手をぎゅっと握りました。縋るように見つめられ、ジョウイは言葉に詰まりました。
「……そんなこと……ないよ。君が江戸に来たときに会いに来てくれれば……」
そうは言いつつも、ジョウイは知っていたのです。あと二、三年のうちには、腹違いの弟も元服です。父親は自分を病弱のためとかなんとかでっちあげて廃嫡し、世間の目に触れないよう国に戻してしまうのでしょう。どちらにせよ、別れの時は近づいていたのです。
ユーナクリフが身を寄せてきたので、ジョウイは腕を回して抱きしめました。腕の中で、彼はうっとりと目を閉じます。
「お金とか権力なんか要らないから、ジョウイがいてナナミがいて……そういうのがいちばん幸せなんだけどな、僕は……」
僕だって君と離れたくなんかないよ……!
ジョウイは心の中でそう叫んでいました。
……このお話はギャグでして、感動モノの恋愛小説になんかなりません。念のため。
それから数日が過ぎました。
ユーナクリフははっきりきっぱり断ったつもりでいたのですが、意に反してシュウは引き下がりませんでした。再び道場を訪れ、押し問答を繰り広げます。
「ユーナクリフ殿、あなたしかいません!」
「僕には無理です!」
会話はすっかりループにはまっております。
「だ・か・ら…!!僕はここを離れる気はないんだってば!」
政治に明るくないユーナクリフでしたが、シュウは力の限り盛り立てていくことを約束しました。
この道場の経営も引き受けると言いました。
血の繋がらないナナミも、ちゃんと姉として迎えるとも言いました。
それでもユーナクリフは頑として首を縦に振ろうとはしません。
とうとうシュウは溜息をつきました。
「……ジョウイ殿のことですか」
ユーナクリフが驚いて目を瞠ると、シュウは苦い顔をしました。
「やはりな……わたしの情報収集力を甘く見てはいけませんよ」
「……そこまで分かってるんなら、これ以上話し合ったって無駄だって思いませんか」
そりゃあシュウだって、いい加減頑固でいけすかないガキだと思っているのです。でもここまできて諦めたらお話になりません。
「ジョウイを正室にできるってんなら考えてもいいけど」
どこの国に男を正室に迎えるような大名がいるというのでしょう。ユーナクリフはダメ押しするつもりで付け加えました。口を滑らせたとも言います。
シュウはさっと立ち上がりました。
「その言葉、お忘れなきよう」
「…………え?」
捨て台詞を残して道場を後にしたシュウ。彼は思いっきり行動派でした。そりゃあもう。
その日のうちにアトレイド家は来客を迎えることになります。
面倒な取次ぎなどすべてすっとばし、シュウはアトレイド家のお殿様、つまりはジョウイのお父さんですが、彼と顔を合わせると開口一番こう言いました。
「お宅の姫をわが主君の嫁に頂きたい」
殿様は困惑しました。強引に面会してきた上、いきなり妙な申し入れ。一体何だというのでしょう。
「これは面妖なことを。当家に娘はおりませんが」
シュウは怯みません。持参した重箱を殿様の前にででん!と置きました。
蓋が開けられ、殿様の目が吸い寄せられました。そこにはなんと金子が詰まっていたのです。シュウはふてぶてしいほどの態度で念を押しました。
「お宅のお子さんは一男一女。上が長女で下が長男……そうでしたな?」
んな無茶な。
しかし殿様は一も二もなく頷きました。
「は、はい!そのとおりです……」
なにしろアトレイド家は現在未曾有の財政難。借金をこさえて参勤交代もやっとこさなのです。
デュナン藩主は名家でお金持ちだし、おまけに長男を廃嫡した後の厄介払いまでできる。こんなオイシイ話が他にあるでしょうか。
早速次男(いえ、これから長男になるのですが)の元服の予定が早められ、婚礼の準備に取りかかりました……結納とかなんとかお金がかかることはすべてシュウが取り計らいました。
そうしてすべての手筈を整えてから、シュウは道場に向かったのでした。
「というわけで、ジョウイ殿をご正室にお迎えしますから家を継いでください」
まさか本当にやるとは……ユーナクリフは唖然としましたが、意外とあっさり受け入れました。
「じゃあ継ぎます」
仰天したのはジョウイです。本人の知らないところでとんでもない計画が持ち上がっていたのですから。
「ちょっと待ってください、無理に決まっているでしょう!!僕は男なんですよ!?」
「幸い顔立ちもお綺麗ですし、化粧をして打掛をお召しになれば女性らしく見えるでしょう。関係者への口止めはぬかりありません」
そういう問題なのか?
「ユノ、君はそれでいいのか!」
「……言ったことの責任は取らないとね」
「なんだそのにやけた顔は―――ッ!?」
逃げ出すようにして屋敷に帰ったジョウイは、滅多に下屋敷を訪れない父親が来ていることを知りました。見たこともない上機嫌な父親は、悪夢のようなことを申し渡します。
曰く、デュナン藩の藩主に輿入れしろと。
ジョウイは震える拳を握り締めました。
「こ、輿入れというのは、女性がするものではなかったでしょうか……?」
「ジョウイ、おまえは私の自慢の娘だ!」
わざとらしく笑って息子の言い分を故意に無視する殿様の隣では、弟がいやみったらしく別れの挨拶をするのでした。
「さよなら兄さん。いや、もう兄さんじゃなかったんだ……姉さん」
ジョウイはもう声もありません。
ああ、あの時の悪い予感はこのことだったのか―――
あまりのショックに呆然としているうちに着々と準備は進められていきます。
めまぐるしい日々の中でユーナクリフはジョウイをぎゅっと抱きしめてにこにこしています。
「ジョウイをお嫁さんにできるなんて夢みたいだよ」
「……本当にね……」
ほとんど投げやりにジョウイは答えます。
「愛してるよジョウイ♪」
「ああ、僕も愛してるよ」
でもね。何か、何か違うと思わないか!?
肩にかかる打掛は昨今の流行りの色で、ナナミがお揃いだと喜んでいるとかいないとか。
嫁入り道具も揃えられ、プロポーズのセリフもばっちりです。
「僕、側室なんかいらないから!」
「それじゃあまた後継者問題で揉めるだろうが!」
「まあ、なんとかなるって♪」
まあ、なんとかなるんじゃないでしょうか。
今日もお江戸は日本晴れ。
かなり強引ですがこれにてお話はおしまいです。
めでたしめでたし……?
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