トリスラント・マクドールは玄関を一歩出たところで足を止めた。ここ数ヶ月ですっかりお馴染みになった顔にばったり出くわしたからだ。
「やあ、ユノじゃないか」
「こんにちは、トリス」
「こんにちはー」
「よう、久しぶりだな」
同盟軍リーダーとその義姉、それにお守り役の熊……もとい、ビクトール。
「お出かけするところでしたか?」
「まあね、夕食のメインを獲りにいこうと思って」
そう言ってトリスラントは釣り道具を掲げて見せた。玄関の内側からは誰かがどたばたと走る音がする。
「なんだかにぎやかですね」
「実は今日、グレミオの誕生日なんだ」
同盟軍の一行は口々に驚きの声を上げた。
「ってぇと今年でさんじゅ……あてぇっ!!」
「へ〜、そうなんだぁ。おめでとうございますっ」
にこにこと笑いながら、ユーナクリフはビクトールの足を思い切り踏んづけている。言わぬが花、なんてことは、世の中にはたくさんあるのだ。
「それでささやかながら身内でお祝いしようってことになってね。丁度いいから君たちも参加していきなよ」
ユーナクリフたちは歓声を上げた。マクドール家のごはんが美味しいのは周知の事実だ。だが、トリスラントは肩を竦めてみせた。
「今日料理を作るのはグレミオじゃないよ」
「え……じゃあ誰が?」
「そりゃあ『僕たち』さ。当然だろ、主役はグレミオなんだから。それで本人をおつかいに出しておいて、こっそり準備しておこうってわけ」
家主に連れられて邸内に入ると、大きな鍋を運んでいるクレオがいる。
「クレオ、おまえ料理なんかできるのか?」
「うるさいね、熊。わたしだって料理くらいできるさ……得意とは言わないけど」
からかい口調のビクトールを睨んではみたものの、些か自信なげだ。台所を覗いてみると料理しているのは宿屋のマリーとセイラで、クレオはどうやら運ぶ方を手伝っているらしい。ビクトールは腹を抱えて笑い出し、怒ったクレオに叩かれた。
「ずいぶんたくさん作るんですね」
「身内でささやかにって言っても、なんだかんだで来られる人は来るだろうからね」
マクドール家の坊ちゃんが帰ってきてから初めての『家族のお祝い事』。それも一度は失ってしまい、再び帰ってきた家族の誕生日に、家人は大いに張り切っていた。
もとよりお祭り好きの面々は、早速自分の持ち場を探し出した。ビクトールはパーンと一緒に飾り付けを始め、ナナミは気合を入れて腕まくりの動作をした。
「わたしもお料理お手伝いしますっ!」
爆弾発言にその場の全員が蒼ざめた。凍りついた空気を察してユーナクリフが笑顔で義姉の肩に手を置き、台所に侵入しようとするのをやんわりと押し留めた。
「本人もこう言ってることですし、買い物でもなんでも使ってやってください」
「あ、ああそうだね!じゃあナナミちゃん、お買い物を頼んでいいかな」
「はーいっ」
少々不満げだったが、メモを渡されるとナナミは素直に買い物籠を持って飛び出してゆく。ほっと胸を撫で下ろし、クレオはユーナクリフに向き直った。
「ユーナクリフさんは坊ちゃんについていってあげてくれませんか」
「はぁ、構いませんけど……いいんですか?」
「俺が言うのもなんだが、こいつ料理はうまいぞ」
ビクトールを押しのけてマリーまでがWリーダーの背を玄関へ押し出した。
「料理の手は足りているよ。それに同盟軍のリーダーさんは釣りも得意なんだって?トリスラントが言ってたよ。頑張ってね!」
追い出されるようにして路上に出た二人は、顔を見合わせた。
クレオやマリーの、なんだか妙な態度にユーナクリフは疑問がいっぱいだったが、トリスラントはあえて何も言わず、連れ立って釣り場に向かったのだった。
◆◆◆
ユーナクリフはトランの英雄と名高い彼に対するひとつの質問を、ずっと口に出せずにいた。
グレッグミンスターの街外れ、広い川に反射する太陽は大分傾いてきている。もうじき夕暮れ、二人がマクドール邸を出てきたのは昼過ぎだ。
引きつった口元を押さえながら、ユーナクリフはとうとうその問いを投げかけた。
「……ト、トリス、ひょっとして釣り……苦手なんですか……?」
ふたつ並んだびくは、恐ろしいほど差がはっきりしていた。片やびちびちと揺れ、片や見事にしんとしている。
トリスラントはフッと陰のある笑みを見せた。
「苦手なんてもんじゃない。実は今まで魚が釣れたことなんか一度もないんだ」
釣り自体は好きなんだけどね、と遠くを見つめるような目つきで呟く。
「一度も?」
「そう、いちっども」
「…………」
なんともフォローの入れようがなく、ユーナクリフはあわあわと言葉を捜した。
「……な、なら……別にメインを魚にしないで、料理に回っていても良かったんじゃ」
「それも考えた。これが戦果だ」
トリスラントが手袋を取ると、絆創膏だらけの左手が現れた。
「本当は、今日のパーティの準備は僕がひとりでするつもりだったんだ。でも家の者が皆して自分たちも手伝うから、僕にはメインディッシュを獲ってこいって言うんだよ」
「それって……」
十中八九、家に帰る頃にはメインディッシュがなくても問題がないくらいの料理が作られている……いや、マリーの様子を思い出せば、あるいは既に家人の期待はトリスラントではなくユーナクリフが釣ってくる魚にあるのだろう。
「大体料理っていうのは、なんでああ面倒なんだろうね。分量を量るとか、さして大きくもないものを更に細かくきざむとか、火加減をするとか」
トリスラントの話を聞いているうちにユーナクリフは頭を抱えた。
調味料を一袋丸ごと入れるくらいなら量らなくてはいけないし、キャベツやカボチャは野菜としては大きい方だし、ずっと強火だけで調理するのはちょっと厳しい。
「イノシシでも狩りに行った方が良かったかなぁ」
「……豪快ですね」
ひょっとして、ひょっとしなくても、このトランの英雄は―――
(不器用……だったんだ、トリスって……)
「料理用の魚ならこれで足りると思いますけど……どうします?」
ユーナクリフのびくは結構な大入りだ。それでも帰ろうと言い出せなかったのは、トリスラントのやる気が失せているようには見えないからだった。
「うん……もう少し頑張ってみるよ」
風を切る音を立てて、糸が遠くに飛んでゆく。
二人並んで鮮やかな色の浮きが揺れているのを眺めながら、しばらくしてトリスラントが口を開いた。
「グレミオにね、毎年プレゼントは何がいいかって訊いていたんだ。そうしたらさ……なんでもいいって。いつも。今年は驚かせるつもりで訊かなかったけど、どうせ同じ答えだろうな。そういう風に言われるのが一番困る」
拗ねたような言い方に、ユーナクリフは笑い声を立てた。
「素直じゃないなぁ、トリスは……グレミオさんが言ったのは『貴方がくれるものなら』なんでも、でしょう」
それで料理にしても、魚にしても、自分だけが用意できるものがいいと考えたのだろう。
ユーナクリフに意味ありげな笑みを向けられ、トリスラントは答えずに視線を水面に戻したが、耳たぶがうっすらと朱に染まって肯定を返していた。
「絶対に釣って帰りましょうねっ!で、グレミオさんに食べさせてあげましょう!」
「そうだね……」
赤く染められてゆく空を背に、トリスラントは釣竿を握り締めている。
「地位の上下とか、そんなのは本当はもう関係ないはずなんだ。帝国はもうないし……それなのに、いつまでも僕はグレミオから色んなものを貰ってばかりだ。何も返せないまま」
庇護や愛情や……生命までも。
だから、今日くらいは。
隣に腰掛けて、ユーナクリフは浮きを目で追っている。
「あっ!トリス、引いてますよ!」
「よっしゃ!」
釣竿がしなり、しばらくの格闘の末に獲物が釣り上げられる。
「……長靴か……」
「……次こそ、大物だといいですね……」
Wリーダーは力なく笑い合った。
……先は長い。
◆◆◆
マクドール邸は重苦しい空気に包まれていた。どっぷりと日も暮れたこの時間になっても、家の主人とその友人の同盟軍リーダーが帰ってこないのである。料理は当初の予定通りメインディッシュ抜きでも問題のない量が作られている。邸内にはアイリーンやカミーユなど更に数人増えていたりもするが、それも予定通りである。
グレミオは既に帰ってきており、ナナミと一緒にそわそわと玄関の前を歩き回っていた。主催者もおらず、主役がこれでは宴会も始められない。
「釣り場は全然危険なところではないはずなんですけど……ま、まさか川に流されたりとかしていないでしょうねっ」
「ええぇ〜っ!やややっぱり探しに行きましょうよ〜」
「そうですねぇ……」
我慢できなくなってナナミが玄関の扉を開けると、暗くなった路地の向こうに連れ立って歩いてくる二人の少年が見えた。
「ユノ!トリスさん!よ、良かった〜」
「ぼ、坊ちゃん!心配しましたよ!」
「ごめんナナミ、グレミオさん……遅くなっちゃって」
二人とも疲れた顔で釣具を引きずっていたが、グレミオが駆け寄るとトリスラントはぐいっと自分のびくを胸に押し付けてきた。
グレミオは何度もトリスラントの顔とびくの中身とに視線を往復させた。
「釣れたんですか、坊ちゃん……坊ちゃんが釣ったんですね!とうとうやったんですね!?」
「そうだよ、だからグレミオにあげるよ。誕生日おめでとう」
晴れやかな笑顔に、感極まってグレミオは叫んだ。
「ううう嬉しいです坊ちゃん!!このグレミオのために釣ってきて下さったんですねえぇぇっ」
残りの者達も皆、マクドール家の坊ちゃんの初めての釣果を称え、びくを抱きしめてむせび泣くグレミオを苦笑しながら見ている。
釣ってきた魚は新鮮なうちにユーナクリフがマリーたちと共に調理して宴の席に振舞われた。
だが、トリスラントが釣ってきた魚だけは、グレミオが調理するといって聞かなかった。
それはたった一匹の、それはそれは小さな魚だったが、グレミオにとって最高のご馳走だったのは言うまでもない。
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