月潮



 
 
 
 
 




 その日は朝から、なんだか体調が変だった。
 特に下半身が重りが乗せられたように動きづらい。まとわりつくような気だるさを振り払うように、ナナミはひとつ頭を振って石畳の上で小走りにユーナクリフに追いついた。
「ユノ!会議終わったんでしょ。どうだったの?」
 先日ミューズでの「偽の」和平会談が失敗した後、義弟の元気がないことを感じているので、反対に無理にでも明るく振舞うことにしている。
 姉としては、こんなことくらいで挫ける姿を見せるわけにいかないのだ。元気付ける方が落ち込んでいてはお話にならないではないか。
 ユーナクリフもつとめて暗い表情を見せないように笑顔を作ってナナミを振り返る。が、何かに気づいて動きを止めた。
「あれ……ナナミ、それ……血?」
「えっ……」
 指摘されて足元を見遣り、ナナミの表情は凍りついた。
 すうっと額から血の気が引く。
「ナナミ、怪我したのかい?どこ?」
 ユーナクリフが心配そうに覗き込んでくるが、ナナミは答えることもできず立ち尽くしていた。
 衣服の裾に赤黒い染み。
 どうしよう。どうしよう。
 そんな言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回る。
「ナナミ、大丈夫?」
 伸ばされた手を振り払い、その行動に自分で驚いてしまう。どうしたらいいのか分からなくて、ナナミは逃げるように駆け出した。
「ナナミ!?」
 手の甲の軽い痛みにしばらく呆然としていたユーナクリフは、突然の豹変に不安を覚え後を追いかけた。身の軽さを誇る彼女だけに、すごい速さで木立の間を走り抜けてゆく。
 と、突然ナナミは方向を変えて城の中に飛び込んだ。ユーナクリフも続いて戸口をくぐったが、既に義姉の姿は消えていた。倉庫の様々な荷が積み上げられた間を覗いて名を呼んでも返事がない。弾んだ呼吸を整えながら、ユーナクリフは奥の階段を上がってみた。
 そこでは銀の髪をきちんとまとめた女性が、ちょうど扉から姿を見せたところだった。
「ヒルダさん……あのう、ナナミ……ここに来ていませんか」
 ユーナクリフはどもりがちに、宿の女主人に声を掛けた。事情を説明しようにも自分こそ事態を把握できていないのだ。
 だが、ヒルダは落ち着いた態度でちらりと扉に目をやると、穏やかに微笑んだ。
「ええ、いらっしゃいますよ。でも……ユーナクリフさん、しばらく待っていてあげてくださいませんか」
「え……?」
「大体の事情は分かりますわ、私も女ですもの。だからここは私に任せてくださいな」
 優しさの中にも立ち入ることのできない空気を感じて、納得しきれない表情ではあったがユーナクリフは頷いた。
 それでもやはり気になるのだろう、何度も振り返りながら立ち去る少年を見送って、ヒルダは小さく息を吐いた。



◆◆◆




 宿屋はいつもより人気が少なかった。冬が近づいてきたため、新たに城を訪れる者が比較的少なくなってきたのだろう。ナナミは空いた部屋に篭り、光を避けるようにベッドの陰に膝を抱いてうずくまっていた。
 このままではますます衣服を汚してしまうと分かっていても、動くことができない。
 ピリカがいなくて、かえってよかったのかもしれない。小さいあの子に心配はかけたくない。ユーナクリフには……後で、何と言えばいいだろう?
 別に、おかしいことでもなんでもないということくらいは分かっている。いつか起こることだと知ってはいたけれど。
「どうしよ……」
 どうして今になって。
 覚悟も何もできていない。こんなことに構っている場合じゃないのに。
 ドアの開く音にナナミはのろのろと頭を上げた。すぐ隣にしゃがみこんできたヒルダは、柔らかな笑みを口元に浮かべていた。
「おめでとう、ナナミさん」
「…………なにがおめでとうなんですか……?」
「もちろん、あなたが大人になったということですよ」
 ナナミは目を瞠ってヒルダの言葉を反芻していたが、ようやっと搾り出すように呟いた。
「わたし……大人なんかじゃない……」
 こんなに弱くて、なんにもできなくて。怖くて怖くて仕方がない。
 わたしは……わたしは、どこに行くんだろう。どうしたらいいんだろう。こんなに弱いのに、もっと強くならなくちゃいけないのに、身体ばかりが重くて動けない。
 黙りこんでしまったナナミの背を、ヒルダはゆっくりと擦った。
「皆、どうしたって大人になっていくわ。でもそれはとても良いことですよ。今はそう思えなくても、きっと」
「ジョウイが……」
 ナナミの顔が上がり、またすぐにうつむいてしまった。
「ジョウイさんが……どうしたの?」
 その背を抱くように寄り添って、ヒルダはそっと先を促した。本質は屈託のないこの少女に、自分までが警戒されるのは悲しかった。
 ミューズがハイランド軍に陥落するまでの間にジョウイに関わった者で、生きのびた者たちにはシュウ軍師から口止めがされていた。自分たちの頂く軍主に、敵軍の将と関わりがあるなど、軍内の不信を煽りかねないからだ。
 彼がハイランドの皇王の座についたことから、改めて緘口令がしかれた。雰囲気を感じて、ユーナクリフもナナミもほとんどジョウイの名を口にしなくなっていた。
 だが、おそらく今、この少女には訴える必要があるのだろう。
「ジョウイ……結婚しちゃったんだって。それでハイランドの皇王になったんだって。びっくりしちゃった」
 ナナミたちにとって皇王など目にしたこともない、雲の上の存在だった。キャロには皇室の別荘があったが、当然ながら警備も厳しく、平民である自分たちには近づくこともままならないのだった。
「……ジル皇女だってうーんと遠くからしか見たことないのよ。でも……とっても綺麗な人なんだって」
 くせの強い髪の先端を指で弄りながら、ナナミは続けた。
「……わたしなんて『鼻ペチャ』の『ちぢれマイマイ』だもんね。比べるだけバカみたい」
 意外に思って、ヒルダは口を挟んだ。
「ナナミさんはジョウイさんが好きだったの?」
「え?そりゃぁ……好きよ。大事な友達だもん」
 あっさりと返ってきた答えに、そういう意味じゃなくて、と苦笑する。
「ジョウイさんに……そう、恋をしていたのかしら」
「恋?」
 考えたこともなかったのだろう、ナナミは大きな目で穴が空くほどヒルダを凝視していたが、やがて視線を落とすと小さな声で答えた。
「よく……わからない……です。だってね……ユノも、そうなの」
 ナナミは眉を寄せてぼそぼそと呟いた。
 たとえば、アイリ。彼女がユーナクリフのことを憎からず想っているのは、傍目にも明らかだ。
 彼女はナナミがいないときにユーナクリフやジョウイと共に燕北の峠を越えたことがある。そのときの話になると、なぜかもやもやとした気分になるのだ。
「わたしもアイリちゃんのこと好きだし、ユノのこと好きになってくれて嬉しいって思うけど、でも……なんか嫌なの」
 言葉を切って沈黙し、やがて溜息が漏れる。
「わたし、イヤな子ですね」
「そんなことないわ。ナナミさんはとても優しくていい子だわ。ユーナクリフさんも、ジョウイさんも。私はあなたたちが好きよ」
 背を撫でながら言い聞かせると、ナナミはうつむいたままほんの少し口の端を上げた。
「……ありがとう」
 普段の彼女の、人を圧倒するような明るさはどうしてしまったのだろう。暖炉をつけていない部屋の中では、しんとした寒さが忍び寄ってくるような気がして、ヒルダはナナミの肩を覆うように抱いた。ナナミは膝頭に顔を埋め、くぐもった声で吐き出した。
「わたし、男の子だったらよかった」
 そうしたら、二人だけを軍に送り出すことなんてしなかった。彼らの傍にある女性の影に不安になったりしなかった。もっと強くなって彼らを守ることだってできたかもしれないのに。
 おまえは彼らとは違うんだよ。彼らと一緒には行けないんだよ。
 身体に現れた印が嘲笑っているように感じられて、ただ悔しかった。
 わたしはどうしたらいいの。どこに行けばいいの。そんな問いを口に出したら何かが崩れてしまいそうだった。
 だってジョウイは結婚しちゃうし。ここはハイランドからはとても遠くて声も届かない。ユーナクリフは……時々、全然知らない人みたい。義弟も親友もどこに行ってしまったのだろう。二人が何を考えているのか、もう自分には分からない。
 彼らも、何もかもが変わっていって、そしてわたしには追いつけない。
「あのね、あのねヒルダさん、ひとつだけお願いがあるの」
「なにかしら?」
 ようやく顔が上げられ、まっすぐに視線を受けてヒルダはどきりとした。縋りつく瞳で、躊躇いがちに、ナナミはヒルダのエプロンの端を握り締めていた。
「今だけでいいから…………おかあさんって呼んでいいですか……?」
 たまらなくなって、答える代わりにヒルダは思い切りナナミを抱き締めた。
 驚いたのか、ナナミはしばらく動かなかったが、やがておずおずと両腕がヒルダの背に回り、嗚咽が漏れ始めた。
 快活な彼女に似合わない押し殺したようなすすり泣き。
「強くなりたい……」
 しゃくりあげながらナナミは何度も繰り返した。
『わたしはお姉ちゃんなんだから』
 彼女の口癖を思い出して、ヒルダは憤りを感じていた。
 守りが必要なのはこの娘の方ではないか。
 身体の自然な変化を受け入れることができないほど、彼女はまだ子供なのだ。それなのに自分が得られなかったものを与えようとするだけで。自らを守ってくれる鎧もないのに、他を守ろうとしてばかりいる。
「無理に強くなろうとしないで。あなたはあなたでいいのよ」
 どう言えば伝わるのか、もどかしく思いながらヒルダは震える背を抱き締めることしかできなかった。
 この子たちにもう少し時間があれば。傷を負いながら、自分と他人と社会と、そして自分の身体との距離の取り方を学ぶ間もなく、性急に過ぎる時の中にいる子供たちの姿は痛々しかった。
「ジョウイさんなら大丈夫よ。私はジョウイさんのこと少ししか知らないけど、それでもあなたたちのことをとても大切に思っているって、すぐに分かったわ。ユーナクリフさんだって、あなたが本当に大切なのよ。男の子とか女の子とか関係なく、あなたが必要なの。二人とも絶対にあなたを忘れたりしないわ」
 彼女の涙を止めることができるのは自分ではない。それを痛いほど感じながら、ヒルダはナナミを精一杯抱き締めていた。
 子供たちは生きてゆくために必要なものを知っているのだ。本当は大切なはずのたくさんのことを、「戦争だから仕方ない」などと、諦めてしまえるようになったのはいつからだっただろう。
 この戦いは、少女をどれだけ傷つけてしまうのだろう―――
 ヒルダはいつのまにか祈りの言葉を紡ぐように、子守唄を歌っていた。



◆◆◆




 夜明け前、城の裏の通用門。闇の中に小さなランプがひとつだけ灯っていた。
「気をつけてくださいね。まだ傷が完全に塞がったわけではないのですよ。無理はいけません」
 ホウアンは心配そうに、目立たない色のマントを纏った少女に声を掛けた。
 本当ならまだ安静を言い渡しておきたいところなのだ。いくらナナミの回復が早くても、ロックアックスで受けた傷は、彼女を一度は生死の境にまで追いやったのだから。
「大丈夫、静かにしています」
 小さく声を立てて笑うと、まだ傷が痛む。
 秘密裏に選ばれた護衛の兵が慌てて手を差し出した。それを断ろうとして思いとどまり、ナナミはおとなしく彼に頼ることにした。
 差し伸べる手と、掴んだ手と、繋いだ手と。ちゃんと見極めようと思った。
「本当にいいのか?」
 念を押したシュウに、ナナミはこくんと頷いた。彼に頼んでおけば、間違いなく秘密は漏らされることがないだろう。いけ好かない相手だが信用はできる。考え方が違うだけで、本当は頼りになる相手なのだ。
 闇の中に聳える城の塔を見上げる。
 ユーナクリフ。わたしはあなたが「私の弟」だから好きなんじゃなくて。
 あなたがあなただから好き。
 だから……だから、わたし、あなたのお姉ちゃんでよかった。
 ジョウイもそう。ジョウイがジョウイだから、大切な友達。
 置いていかれたくない。そんな気持ちばかりで、守っているふりをして握っていた手を放してあげよう。
 すべてが変わっていってしまうことを恐れていた日々。だけど、変わることは悪いことではないのだと、ようやく思えるようになったから。
 それでも、大切なものは変わらないのだと分かったから。
 冷たい石畳の上で、最後に見た二人の顔を思い出す。
 だからもうこれ以上わたしを気にしないで。わたしのために我慢しないで、好きなようにしていいよ。
 こんなやり方はずるいと、彼らを悲しませることに罪悪感がないわけではないけれど。これくらいやらなくては、ここで自分が引き返してしまっては意味がない。
「あの子たちなら……きっと大丈夫」
 この戦いが終わったとき、ユーナクリフとジョウイがまだわたしのことを忘れていなかったら、きっと帰ってくるはずだから。だから、ずっと待ってる。
 下半身が、また少し重い。こんな怪我をしても、身体は正常にリズムを刻もうとしているのだ。
 ヒルダの胸の温もりをなぞるように、ナナミは自分の胸を抱いた。そのときが来たら、あんな風に温かくすべてを包み込むように抱き締めてあげる。
 それはわたしにしかできないこと。
 どこか眩しそうに目を細めたシュウに、ナナミはぺこりと頭を下げた。
「あの子のこと、お願いします」
 どうか、あなたたちが幸せになれますように。
 母のような女性の祈りの声が聞こえてくる。
 戦いの行方は、まだわからない。
 しかしナナミはしっかりと頷き、灯りを抱いて歩き出したのだった。




  


 
 
 
 



 キリリク頂いて「ナナミへの愛を形に」してみました。
  だいぶ長いこと暖めていた話ではあったのですが…
  こういう語り系のお話はどうしても力量不足が痛感されます(涙)


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