時計の針に急かされる旅の中、束の間得られた休息の時間。
カイルやドナは仮眠を取っている。ボブ…モニターが眠るのかどうかは知らないが、彼もどこかで一休みしているのだろう。
ジェイソンは眠れなかった。
このアースに着いて以来続いている胸騒ぎは、ウェイン邸に来てから一層強くなっている。
ヴィクトリア朝の様相をしてはいても、ここは確実にゴッサムだった。ジェイソンは、なぜか見覚えのない裏路地のそれぞれが行き着く先を知っている気がした。
そしてこの屋敷。ガス灯の時代にあっても、ウェイン邸はどこまでもウェイン邸だ。
ジェイソンの記憶にはない装飾品や棟も数多いが、それでもなお、目を閉じて歩くことすらできそうに感じる。
玄関ホールから夕暮れの庭園を眺めていると、1時間ばかり出かけていた屋敷の主が広い扉から滑り込むようにして帰って来た。
ブルースは近くにあった帽子掛けにシルクハットと外套をひっかけ、青年の存在に気づいた印としてわずかに顎を引いた。
「トッド君」
「ジェイソンだ」
響きを確かめるように、ブルースは繰り返した。
「ジェイソン」
背をぞくぞくとした震えが這い登った。彼は自分が知っている世界のブルースではないと分かってはいても、身体が先に反応してしまう。
彼と同じ顔、同じ声。切れそうなほど糊の利いた襟に窮屈そうなアスコットタイ。古風な紳士然とした姿は、ビジネススーツよりも似合っているかもしれない。ジェイソンは喉の奥で笑った。
「時間まで休んでおかないのか?」
「ああ……」
ジェイソンは否定とも肯定ともつかぬ返事をした。夜に徘徊する蝙蝠の化け物を倒すためには、今のうちに少しでも休んだ方が良いのは分かっていた。
「なぜか眠れないんだ」
強がりも皮肉もない素直な言葉が出て、自分自身に戸惑いを覚えた。ブルースが目を細める。その仕草はジェイソンの知るバットマンとまるで同じだった。
「先程の戦いでは助太刀に感謝するよ、ジェイソン。よく鍛えているようだが……どこかで見覚えのある動きだ」
当然のことだった。各種格闘技をはじめ、様々なフィジカルトレーニングを最初にジェイソンに覚えさせたのはブルースだ。墓穴から甦った後も、彼の足跡を辿るようにして各地でトレーニングを積んで来た。
それだけではない。絶妙なタイミングで呼吸を合わせ、共闘することができる……ブルースとなら。
この世界のブルースにとってジェイソンは初めて会う人間だ。なのにまるで、二人でシミュレーションを重ねたことがあるかのように。
「ジェイソン」
再び名を呼ばれ、ジェイソンは呼吸が浅くなるのを感じた。
だがブルースの怪訝そうな視線に、答えることはできなかった。一体何を言えば良いのか?別世界のあんたが俺を拾って死なせたのだとでも?
「君達がいた世界では……君と私はなんらかの繋がりがあったのだな。そうだろう?」
「知ってどうする?この世界のあんたには何の関わりもないことだ」
言いながらジェイソンは胸を焼く痛みを感じていた。
血塗られた絆の行き着く先が見えない。足元すらも定かでない。何もかもが不確かだ。焦がれるほどに欲しいと思うのは一人だけなのに。ブルースだけなのに。この心すら土台を持たないかもしれない、借り物の時間を生きている自分。
誰かが、おまえは存在すべきではないと言う。ただひたすらに帰りたいという気持ちばかりが強くなる。けれどどこへ?
「……そうだな」
ためらいを滲ませたブルースの声にはっとした。
どれくらいの間見つめあっていたのだろう?ほんの数秒の間かもしれないがやけに長く感じられた。
ブルースが一歩引いたことで、逆にいつの間にか二人の間の距離が縮められていたことに気付く。
逸らされた視線に失望の色を読み取ってジェイソンは狼狽えた。何か期待されていたのか。何か別の答えを。
ほとんど無意識に、もう一歩離れようとするブルースの腕を掴んでいた。
ブルースが顔を上げ、ジェイソンは鋭く息を吸い込んだ。
確信と驚きが見えない稲妻のように空気を走った。
夜明け前、初めて目を合わせた瞬間の既視感を、彼もまた感じていたのだ。
気がつけば、ジェイソンはブルースに深くくちづけていた。
砂漠に水を求める者の必死さで、渇きに急かされただ貪る。
ぶつかるような激しさにくぐもった呻きを洩らしながらもブルースは抵抗なく受け入れていた。
ようやく唇が離れた時には、二人とも息が上がっていた。
「こういうことなのか。ならば納得がいく」
覗きこむ瞳の青が濃さを増している。ブルースの掠れた声には満足げな笑いが含まれていて、ジェイソンは余裕の差を見せつけられたような居心地の悪さを感じた。
まるで12歳の少年に戻ってしまったみたいだ。
「ち、違うんだ。違うけど……でも……」
どう説明すれば良いのか、言葉が見つからない。その代わりに喉元まで出かかった問いを飲み込んだ。
ブルースは答えを待とうとはしなかった。
再び唇が重ねられ、ジェイソンは夢中で味わった。
分厚く重いカーテンに彼の背を押しつけ、全身を密着させると、衣服越しにも互いの身体が昂ぶってゆくのが分かる。
吐息の間から低い声が自分の名を呼び、ジェイソンは衝動を抑えきれなくなった。
くちづけは離さぬままブルースの背に腕を回し、広い肩から引き締まった尻にまで手を這わす。
折り目正しいフロックコートが乱されて落ちる。
勢い任せに膝を割り、腰を押しつけると、ブルースははっと息を呑んで背をしならせた。
だがブルースも、年下の青年にいいようにされているだけではなかった。
大きな手に脇腹を撫で上げられ、ジェイソンは鳥肌を立てた。
シャツの裾から侵入した手は、容赦なく素肌を灼いてゆく。固い掌が乳首にかかって叫びを上げそうになる。
「ブルース……!」
我ながら切羽詰まった声だ。頭の片隅でぼんやりと考えた。
生意気で無謀で怖い物知らずで、嫌われもののジェイソン・トッド。そんな評判をこのブルースが聞いたら鼻で笑われそうだ。
ますます強く腰を押し付け、ブルースのそれと擦り合わせる。下腹から痺れるような強張りが全身に広がってゆく。
性急な手がブルースの腰のベルトに伸びる。
彼が身に着けているものなど、できることならすべて破り捨ててしまいたかった。衝動が暴れ回るままに奥まで突き立てて気を失うまで犯してやりたい。実際にそうしかけていた。
だが耳元で名を呼ばれると、ジェイソンは動けなくなった。
ブルースの顔も昂奮と情欲の色に染まってはいたが、瞳は静かだった。優しくて、穏やかで……寂しげな瞳。
こんな瞳を最後に見たのはいつだっただろう。
俺が死んだ日だ。そう思い当たったのはブルースの手が下半身に這わされた時だった。顔も知らなかった実の母親と再会した日の記憶だ。俺は有頂天になっていて、ブルースの寂しげな微笑に気づかないふりをしていた。
長くて巧みな指が大きく膨れ上がったジェイソンの欲望を露わにして包み込み、記憶も思考も散り散りに吹き飛ばしてしまった。
「ブルース、待っ……」
急速に追い上げられ、ジェイソンは焦ってブルースの肩を強く掴んだ。だが強靭な筋肉に覆われた腕は動きを止めない。腰を引き寄せられ、成す術もなく目の前の男に縋りついていた。
「ちくしょう」
震えながら呟いた次の瞬間、快楽の高波に襲われて抗うこともできず押し流された。
切れ切れの溜め息を吐いてジェイソンはブルースの胸にもたれかかった。
重たいけだるさが全身に降ってくる。ほんの少しだけ呼吸を整えたい。そうすれば今度は―――。
「ジェイソン、少し休め。まだ時間はある。眠れないなら横になるだけでもいい」
「はあ?」
ジェイソンはま抜けた顔でブルースを見つめた。ここまでやっておいて何を言うのだ、この男は。
「ちょっと待てよ、なあ……」
「力を蓄えろ。先へ進み、世界の崩壊を食い止めろ」
低く深い声が淡々と告げた。ブルースが素顔でいる時よりもなお低い、バットマンの声。
状況に理解が追いつかず、ジェイソンはまじまじと彼の顔を見つめた。先ほどまでの情熱が余韻だけかすかに残っている。
「どうして……!!」
ジェイソンはかっとなってシルク地のシャツを鷲掴みにした。
「どうしてあんたはそうなんだ!いつもいつも、受け入れるように見せかけて突き放す!」
叫んだら、次から次へと想いが溢れて止められなくなった。
「俺を見つけたのはあんたじゃないか。俺をこんな風にしたのはあんたじゃないか。どうして俺じゃだめなんだ。どうして俺を見ないんだ。どうして救けに来てくれないんだ。あんなに呼んだのに。あんなに呼んだのに!!どうして俺だけ……!!」
言葉にしきれない感情の塊が腹の底からどっと押し寄せ、喉を詰まらせる。
ブルースは静かにジェイソンの激情を受け止めていた。バットマンの衣装を着ていたならば、蝙蝠のマスクが冷徹さを演出しただろう。だが今、黄昏の中で痛みを抱えた瞳が隠されることはなかった。
ジェイソンはその瞳から目を逸らせなくなった。
「君が求めているのは私ではないからだ。君を私のものにはできない。君はここには残れない。ジェイソン、私には止められない」
事実を告げる一言ごとに、翳りが増してゆく。寂しげな瞳。置いてゆかれる者の瞳。
同じじゃないかと心が言う。それは違うと記憶が叫ぶ。
彼はジェイソンの知っているブルースではない。あの薄汚れた路地で出会ったバットマンとは違う。
ジェイソンは俯いた。惨めで泣き出したいような気分だった。
「わからないんだ……俺が探しているのは誰なのか。俺は誰なのか」
搾り出すように呟いた。何かがひどく間違っている。存在しないはずの世界。存在しないはずの自分。存在しないはずの想い。
こんなに苦しいのに、宙ぶらりんの感情。
「俺……俺は、もしかしたら本当はこの世界に生まれたんじゃないかって思うんだ。それであんたに出会うはずだったんじゃないかって……あんただって感じただろう、何か……俺達が繋がってるって感じを」
「ああ」
「だからもし……もし俺がこの世界に戻ってくることができたら……」
「……ああ」
ブルースの浮かべた表情は苦笑に近かった。ジェイソンが戻ってくる可能性がどれくらいあるものか、分の悪い賭けだと二人とも分かっている。
玄関ホールの階段を、二階の寝室に向かってのろのろと進みながら、ジェイソンは振り返った。
階段の下では、ブルースが暮れてゆく庭園を微動だにせず見つめていた。
「それじゃ……、ありがとう。色々と」
朝日が古めかしい街並を黄金色に染めてゆく中で、ジェイソンはバットマンと最後に向かい合った。
いつになく神妙な様子の同行者に、カイルからは怪訝な目を向けられたが、徹底的に無視してやった。カイルの方も自分の不注意が原因で余計な時間を使ってしまった罪悪感があるので、敢えて喧嘩の種を蒔こうとはしなかった。
「バットマン……あんたはさ、その……」
「なんだ?」
この世界に来てからずっと訊きたいことがあった。しかし、結局訊くことはできなかった。
「いや……なんでもない」
堰き止められた言葉はジェイソンの喉の奥だけに谺する。
―――ディック・グレイソンを知っているか?
問いを形にすれば、もし否定されたとしても、それがきっかけになって彼らが出会う未来を引き寄せてしまう気がした。
もしも、もしもこの世界にロビンが存在していないなら。もしも自分がこの世界に戻ってくることができたなら。自分こそが一人目のロビンになれるのではないか?
最初にして唯一のロビンに。
そんな甘い夢を見ずにいられなかった。
「出発するぞ」
抑揚に乏しいボブの声が間近に聞こえ、光に包み込まれる。
ジェイソンは目を閉じて、ガス灯に照らされたアース19のゴッサムを鮮やかに思い浮かべていた。
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