Bodyheat








 水から引き上げられた時バットマンは何度も繰り返した。
「ジョーカーの死体を捜せ」
 常識的には、墜落するヘリから負傷したジョーカーが逃げられたとは到底考えられないのだが。
 果たしてジョーカーの死体は、一部たりとも発見されることはなかった。
 FBIとNY市警察に加え、スーパーマンとバットマンの総力を駆使しても、である。
 公的機関が手を引いた後も、ブルースはNYに留まって執拗に捜索を続けた。クラークとしても協力するにやぶさかではなかったが、永遠に川底を透視し続けるわけにもいかなかった。
 ジェイソン・トッドが死んだ。
 ジェイソンを殺したジョーカーは行方不明だ。
 事件は未解決のまま宙に浮いた。
 その結果を予言するかのような、確信しているかのような口調で「探せ」と繰り返したブルースは、ジョーカーの死を願ったのか、それとも生を期待したのか。
 答えは明確な形を持たぬまま棘となって残り、傷口を苛み続ける。
 そして棘は、数年の後にジェイソン・トッド本人の姿でブルースの前に再び現れたのだった。



 マンションまで1ブロック半。部屋に上がっていけとしつこく誘う女への意思表示だ。
 車を降りて愛想のよい微笑と共に助手席のドアを開けてやると、彼女は観念して渋々コンクリートを踏んだ。完璧にメイクされた横顔に失望の色が宿り、彼女との交際も終わりが近いことを語っている。
 真夜中の通りには人影もなく、遠ざかる華奢な背中がマンションのエントランスをくぐるまで見送る。遅くなってしまったが深夜のパトロールに出るには問題ない。ブルースはひとつ息をつき再び運転席に乗り込んだ。
 キーを回そうとする手を、後ろから伸びてきた別の手が止めた。
「……っ!?」
 ブルースははっとして振り返ろうとしたが、一瞬早く力強い腕が首にきつく回された。
「くっ……」
 鍛えられた闘士としての動きで身体を捻り拘束を解こうとする。その時、耳元に吹き込まれた低い声がブルースを止めた。
「選手交代だ、ブルース。ここからのお相手は俺がしてやるよ」
 ジェイソン。
 絶句しているブルースの顎を掴み無理やり首を捻じ曲げさせると、ジェイソンは噛み付くように唇を重ねた。
 濡れた舌が歯列を割り、口腔を探る。
「ブルース」
 囁く声は記憶にある少年の声より深みを増し、ブルースの耳を打つ。解放された唇は震えるだけで、紡ぐべき言葉を見出せなかった。
「来いよ」
 BMWの後部座席からジェイソンは手招いた。ジェイソンの望む行為が何か、教え込まれた身体は背に慄きを走らせる。ブルースは戸惑いながらも、拒む術を知らなかった。
「ここで……?」
 ようよう発した問いも軽く笑い飛ばされるだけだ。
 ブルースは身体を反転させ後部座席へ移動しようとしたが、途中で遮られた。
「待って……そのまま」
 シートの背に手をかけ後部座席を覗き込む中途半端な姿勢はブルースの自由を奪っている。ジェイソンはシルクのネクタイを抜き取り、シャツのボタンを外し始めた。
 はりつけにされたような羞恥に、ブルースは奥歯を噛んだ。
 暗い車内に白い腹が晒され、街灯の光が筋肉組織の描く凹凸を浮かび上がらせる。
 革のベルトを外され下着ごとスラックスを腿まで引き降ろされると、ブルースは息を呑んだ。
「いい格好だ」
 ジェイソンは手袋を抜き取り、素手でブルースの肌を辿った。高価なスーツに包まれたこの肉体が、闇を駆ける騎士のものだと信じられる者はなかなかいないだろう。だが直にその肌を見れば無数の傷痕が激しい戦歴を語っている。
 脚の間から奥に手を差し込まれ、ブルースはびくりと身を竦ませた。
 女のように潤うことのないそこは、簡単には侵入を許そうとはしなかったが、ジェイソンは意に介せず指を押し込んだ。苦しげな呻きがブルースの喉から漏れる。
 だが片手で性器を弄りながら指をゆるゆると動かしてやると、吐息が熱に染まり始める。
 彼をただ苦しめたくて無理やり犯したこともあるが、肉体的な痛みよりも感情に翻弄される姿がジェイソンを熱狂させた。
 苦痛、快楽、羞恥、屈辱。そんなものが次々にブルースの瞳をよぎってゆく様は何よりもエキサイティングだ。
 この姿をいつまでも眺めていたいと心は主張したが、身体は別のことを要求した。
 指を引き抜かれ、ブルースは大きく上体をしならせた。がくがく震える膝はまるでゼリーになってしまったようで、崩れ落ちないようにするにはシートの背もたれに縋りつくしかなかった。
 逞しい腕が纏わりつくスーツの裾をかきわけて腰に回され、強く引き寄せられる。後部座席に雪崩れ込んだブルースは、間近に凶暴な瞳を見て背筋を寒くした。
 膝に抱え上げられ、大きくいきり立つ欲望を押し付けられてブルースの額から血の気が引く。反射的に逃げようとした腰はすぐにシートの背にぶつかった。
 No...と、掠れた吐息に混じる呟きはほとんど音にならなかった。だがジェイソンの心を凍らせるには充分だった。
「俺を拒むのか、ブルース?」
 感情が抜け落ちたような声。ブルースは身を強張らせた。
「ちが……う……」
 ジョーカーを殺すことができないブルースには、ジェイソンが伸ばす腕を拒むことなど到底できなかった。
 ジェイソンが求めているのは証だ。
 愛されている証。存在を肯定されている証。
 その命の価値の証を。
 震える息を吐きながら、ブルースはジェイソンの膝に自ら少しずつ腰を落としていった。体内を押し広げる痛みと熱に、堪えきれず呻き、鋭く息を吐いた。
 どうすればいい。
 答えは見つからぬまま視界は眩み、ブルースは筋肉の硬く張りつめた肩にしがみついた。
 罪悪感に心を切り裂かれても、ジェイソンの求めに応じてジョーカーを殺すことはできなかった。殺してやりたいと何度も思ったのに、実際に殺しかけたことだってあったのに、結局はできなかった。
 それでいい、それが正しいのだと結論は出せても、心は血を流し続けた。
 せめて身体ごと激情を受け止めてやれば、傷つき歪んだ魂を取り戻すことができないだろうか?
 自分勝手な言い訳だ。頭のどこかで冷酷な理性が告げる。
 あたたかい身体。
 しっとりと汗ばみ、荒い呼吸と激しい鼓動を伝える身体。硬く屹立する生の証。
 神様。
 ブルースはたまらず目を閉じた。
 あの日腕の中で、幼い身体はどこまでも冷たかった。無駄と分かっていて蘇生法も試みた。ラザルス・ピットに入れようかとまで考えた。
「ジェイ……ソ、ンッ」
 浅ましく蠢く粘膜が、若く健康な身体を奥へと誘い、深く呑みこむ。もっと直接的に、もっと本能的に感じられる場所へ。
 激しく突き上げられ、ブルースは喉を引きつらせた。
 容赦なく揺すぶられ、穿たれ、かき回され、獣のように喘ぐ。
 これが欲しかったんだ。乱れた呼吸の合間にジェイソンの低い笑い声が響いた。
 ジェイソンは弱者の世界を知っていた。そこは弱者が更に弱い者を踏みつけにする世界。弱い者は奪われる。待っていても欲しいものは与えられない。施しは得られても、価値あるものは手に入らない。
 手に入れたくば奪うしかない世界だ。
 ブルースに拾われ、ジェイソンは弱者の世界を抜け出したと思った。しかしそれは間違いだった。ジェイソンは弱く、緑の髪の狂人に何もかもを奪われた。
 今度は俺が奪う番だ。
 バットマン。ブルース。この男がずっと欲しかった。自分だけのものにしたかった。けれど待っていても彼はジェイソンのものにはけしてならない。どれほど訓練しうまく立ち回っても、ブルースはロビンに別の面影を見ていた。
 それでも彼と一緒にいられたなら、時と共に別の関係を見出せたかもしれない。
 けれどあの最後の瞬間に、どれほど呼んでも救いの手は与えられなかった。
 溺れそうな快楽の淵でジェイソンは食いしばった歯の隙間から囁いた。
「俺を見ろよ、ブルース」
 欲しいものは手に入れろ。
 潤んで輪郭のぼやけた瞳がゆっくりと開く。
「ジェ……イ……」
「そうだ。俺を呼べよ。俺が中にいるのがわかるだろう」
 腰を掴みいっそう奥に突き入れると、ブルースは涙混じりの悲鳴を上げた。肌と肌がぶつかり合い、卑猥な音を立てる。
「ジェイ……ジェイソンッ……も、アッ」
 焦がれ続けた存在をこの手で組み伏せ、引き裂き、穢す。圧倒的な喜悦と失望が混じり合う。
「誰に犯されているかわかるだろう?あんたの可愛いロビンだよ、ブルース」
 びくりと肩を揺らし、ブルースは呆然と唇を動かした。
 ロビン、とあえかな吐息が落とされる。
 低い声の囁き。そのアクセント。ほんの少し甘い残響。
 刻み込まれた記憶。
 体内を圧迫する熱源が大きさを増し、ブルースの喉を詰まらせた。
 外側と内側から強く擦られ呼吸さえままならなくなる。子供のような仕草で首を振り、足りない酸素を得ようともがき、車内の空間に限界まで四肢を突っ張る。
 緊張し引き締まった腹筋に白濁した液体が振り撒かれる。
 痙攣する熱い粘膜にきつく締め付けられ、ジェイソンは歓喜の声を上げた。
 追いかけるように奥へと迸った波が、ブルースの脳髄までをも痺れさせた。
 全身が弛緩するにつれ気道が開き、供給される酸素をブルースは貪る。ジェイソンのジャケットを握り締めていた長い指が力を失い、はたりと落ちた。
 髪を乱し、朱に染まった目元を濡らすブルースの顔が美しいとジェイソンは思った。
 どうして終わりがあるのだろう。
 記憶も感情も白く灼き尽くすような絶頂の瞬間が、どうして永遠にならないのだろう。
 このまま彼の喉が嗄れるまで犯し続けてやろうか。自分の名を呼ばせながら。失った名を呼ばせながら。
 失神しているのか、放心しているのか、ブルースは瞼を伏せて動かない。
 どうして。
 ジェイソンは唇を噛んだ。掴んだものが指の間をすり抜けていくようなこの時間が嫌いだった。
 どうしてこんなにもあんたが遠い?



 気づいたときには、BMWはウェイン邸の門前に停められていた。
 ブルースは鈍く痛む額を押さえて身体を起こした。
 見下ろしてみればまったく酷い格好だった。皺だらけのスーツに老執事は眉を高く上げてみせるのだろう。情熱を失い気味の彼女と、少々濃密すぎる時間を過ごしたのだと解釈してもらいたいところだ。
 のろのろと運転席に移動する。ジェイソンの姿はとうになく、シートはただ冷たい感触を返しただけだった。
 あの嵐のような時間は本当にあったことなのだろうか。
 ジェイソンが消えた後にはいつも不安に駆られる。
 脳と五感が共謀して自分自身を騙しているのではないか。本当は、ジェイソンは生き返ったりなどしていなくて、成長した姿などただの幻でしかなくて。
 なにもかも全部、都合の良い夢ではないのか。
 喪失の痛みから逃れるために、狂った心が作り出す紛い物の記憶ではないのか……
 ジョーカーのけたたましい笑い声が耳元を通り過ぎた気がして、ブルースは頭を振った。
 違う。現実だ。
 証拠はここにある。この身体にある。
 ブルースは蹲り、自らの腕をきつく抱いた。
 あの子の体温がまだ残っている。
 生きている、熱い身体。
 開いたままの傷口を抉る棘ごと認める。
 現実だ。
 それが救いなのか、更なる痛みへの入口なのかは、ブルースにはまだ判らなかった。





 

07.08.23