帰宅したときの僕はそりゃあ上機嫌だった。
なぜかっていうと、一学年上のガールフレンドと初めてのデートだったからだ。栗色の巻き髪と、両親が南部の出身だとかで時折混じる訛りがチャーミングな女の子。
校内でもすごく人気が高い娘だから、約束を取り付けた時には嬉しくて、送迎の車の中でアルフレッドに散々自慢したものだ。薄暮の中、ウェイン邸の前庭を歩く僕の足取りは浮かれていた。
邸内に入ると、すぐにアルフレッドが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、リチャード様」
「ただいま。ブルースは?」
アルフレッドは意味ありげに片眉を上げてみせた。
「お客様のお相手をなさっておいでです」
パーティーが開かれるような時以外、ウェイン邸に出入りする客人はごくごく限られている。つまりある程度以上の繋がりやそれなりの事情があって来ているってこと。
社交界の寵児なんて言われて、世間はごまかされているけれど、実のところブルース・ウェインはそれほど人付き合いが良い方ではない。放蕩者らしいうわべを上手く取り繕っているだけで、プライベートの部分は注意深く隠されているのだ。
貪欲なゴシップ記者たちをあしらうにはちょっとしたコツさえ覚えればいい。食べ残しの骨に、あとほんの少し肉片でも付いていれば、それが全部だと思い込んで満足してくれる。
「僕も挨拶した方がいい?」
「今でなくともよろしいかと」
ぴんときた。女だ。
突然、胃がひっくり返ったような気分になった。
この間スクープされていた女優かな。それともあの新人モデル?
……別にどっちでもいいけど。
自分の野次馬根性に無理やり蓋をして、僕は階上の自分の部屋に駆け込んだ。
本当はケイヴに直行したいところなのだが、それはこの家での約束に反するので、先に学校の宿題を済ませなくてはならない。
ノートを取り出そうとしたら、勢い余ってバックパックごとひっくり返してしまった。あーあ。ばさばさと教科書やらプリントやらが散乱する。
億劫になった僕は必要なものだけを拾い上げて机に並べた。今日の宿題は数学と国語。数学はなんてことない、15分もあれば終わる。国語はプリントを配られている。ええと……エリオットの詩を暗記しろ?なめてるのかあの教師。
ボーイワンダーの学校生活は目立たず騒がず、落第せず、優秀すぎもせず、がモットーだ。だからこんな、誰もやらないような宿題は僕もやらないことにしようっと。
プリントを無視して数学の教科書を開く。鉛筆をノートに押し付けた途端、芯がぽっきりと折れた。
僕は舌打ちして鉛筆を放り投げた。
まったくもう、苛々する。なんなんだよ?
鉛筆の落ちたところには、今日デートした女の子のリボンが、バックパックのポケットから飛び出していた。
『またデートしようね』って僕の指にリボンを巻きつけた、ロマンチストな彼女。
首尾よくキスまでもらって、鼻歌を歌いながら帰ってきたはずだったのに。
部屋の惨状をひと回り見渡して溜息をついた。椅子から降りてのろのろと散らばった勉強道具を拾い集める。
ベッドサイドに写真立てがふたつ。ひとつは、サーカスの衣装を着た父さんと母さんと僕の写真。ひとつはどこかのパーティ会場で撮られた写真だ。まだ着慣れなていなかったタキシードを窮屈そうに着ている僕と、穏やかに笑みを浮かべて僕の肩に手を置いたブルース。
気がついたら、僕はぼんやりとブルースの唇を見つめていた。
夜の街では、闇に浮かぶいかめしいマスクはもちろん、酷薄そうな薄い唇も悪党どもを震え上がらせるのに一役買っている。
しかし通常はへの字ばかりのその唇がボウタイの上で弧を描くようになると、端正な顔立ちに貴族的なアイロニーを付加して人々の目を奪う。
これで浪費家のボンクラでさえなければ、と嘆息する女性も多い。真実を知ったら目の色を変えるだろう。
勉強なんて全然気が乗ってこない。僕は宿題を後回しにてケイヴに降りることに決めた。
バレたら叱られるかな?ふとよぎった考えも、苛立ちにかき消される。知るもんか。宿題をいつやるのか自分で決められないほど僕は子供じゃない。なんとなく僕を応援してくれているようで、お守り代わりにリボンをポケットに押し込んだ。
ごく些細なことだけれど、ブルースのいいつけに背いていると思うと妙に気分が良かった。
はじめは、ごく小さな違和感だったんだ。
例えば指示に従わなかったと言って怒られるとき(結果オーライでお咎めナシだったこともあるが、それは大抵ブルースが落ち込んでいるとか、すこぶる機嫌がいいとか、細かいことなんか考える余裕がなかったときだ)
あるいはブルースの予想が外れて、僕の懸念が当ってしまうようなとき。
それから、何の説明もなしに待機を命じられたり、置いていかれたりしたとき。
『だけど、……』
この言葉が、いつの間にか心の中にこびりついていたことに僕は気づいた。
だけど、他の手だってあったじゃないか。
だけど、結局はこの方がうまく行ったじゃないか。
だけど、あんた一人じゃ危険かもしれないじゃないか。
だけど、だけど……
もちろん僕が間違っていたことも多いけれど、結果論や仮定法で語っても意味がないことは分かっているけど、僕が正しいことだって何割かはあると思うんだ。
心の中で繰り返す声はだんだん大きくなり、だんだん消えなくなって常にくすぶっているようになる。
僕は苛々することが多くなって、そんな僕にブルースもますます厳しいことを言うようになる。悪循環だ。
いつの間にこんな風になってしまったのだろう。昔はバットマンの隣に立っているというだけで嬉しくて仕方がなかったのに。
だけど……だけど、信頼しあってこそのパートナーだろ?
僕が何もできない子供みたいな言い方をしないで欲しいんだ。この世界で生き抜く技術を、泣き言も許さず叩き込んでくれたのは誰だと思っているんだ。誰が僕をここまで育てたんだ。
もっとこの背が伸びればいいのに。もっともっと、ブルースに届くくらいに。早く伸びろ。
僕は足早に階段を降りて書斎に向かった。宿題の件で罪悪感が手伝ってか、なんとなく忍び足になってしまう。書斎のドアを静かにくぐり、柱時計に近づこうとして、続きの部屋から漏れるかすかな声を耳にした。
今のはブルースの声?書斎と続き部屋の間は細いドアと、ドアを隠すカーテンに遮られている。鼓動が速くなる。ちょっと様子を見るだけ。緊張する必要なんかない。僕はそっとカーテンをかきわけた。
くすくすと笑い声。ソファにもたれた金色の髪が波打っている。
胸に重苦しい塊が落ちてきた気がした。ブルースの恋人と呼ばれる女性がこの部屋まで入ってくることなんて、今までなかったのに。大抵は玄関から程近い客間、それから……客用寝室くらいだ。
視界に入る範囲で、彼女の横顔は確かに美しい。でも唇を彩る笑みは少し高飛車に見える。頭はちょっと軽そう……そこまで考えて、僕は顔を顰めた。ブルースがわざわざ家に連れてくるようなお気に入りの女の、頭が悪いわけがない。ブルースは才女が好きなんだ。僕の胸を占める不快感が彼女の印象を歪めていることに、悔しいながら気づいてしまう。
もう少し首を伸ばすと、ブルースの横顔が視界に入るようになった。
いつもはあまり考えたことがなかったけど、こうやって見るとブルースは男の僕から見ても本当に魅力的な顔をしている。どこにいても人目を引くのが解る気がした。荒々しく切り出されたような輪郭。真っ直ぐに尖った鼻。眉間には消せない皺が僅かに残っているが、却って男性らしい渋みを添えて薄藍の瞳を引き立てる。
切り上がった目尻を少し下げた緩やかな微笑み。マスメディアに向かって振舞う軽薄な笑顔じゃない。どくん、と心臓がひとつ大きく打った。
艶を帯びた甘い声に、囁きを返すブルースの低い秘めやかな声。
細い腕が筋肉質のがっしりした肩にかけられる。
一瞬、ほんの一瞬だけ、青い視線がこちらに向いた気がして、僕はぎくりとした。あんまり熱心に見つめすぎたのかもしれない。だってブルースの淡い色合いの唇が、赤く塗られた女の唇から白い肌を辿り始めている。最初はためらいがちに、少しずつ大胆に。僕は目を離すことができなくなった。ちらちらと濡れた舌が覗く。背中にざわりと鳥肌が立った。
だめだよブルース、そんなこと……
二人の姿はソファの向こう側に倒れこみ、時折僕の目に入るのは爪先に揺れるハイヒールと、波打つブルースの背だけになる。
息が苦しい。心臓が破裂しそうだ。ブルース、そこで何をしているのさ?ブルース、やめろよ。やめて。お願いだから。ブルース、ブルース……
溜息のような掠れた声が聞こえ、目の前が真っ赤になった。
まるで全身に火が付いたようだ。
いつの間に自室に戻っていたのか自分でも覚えていない。
思い出すのは乱れた吐息と、あの低くてセクシーな声ばかり。
「セクシー」だなんて、こんなに凶悪なことだとは知らなかった。楽しくてワクワクするものだと思っていたのに、胸が痛むほど苦しくなるものだったなんて。
頬に添えられた大きな手の温かさや逞しさなら僕だってよく知っている。でもあの指先で、意味を込めて触れられたらどう感じるのだろう。顎から首筋を辿る唇の弾力はどんな感じ?僕の唇を重ねたらどんな味がする?
愕然とした。僕が思い出しているのはブルースのことばっかりだ。強烈な光景を目撃してしまったんだということは解るが、あの女性の顔すら思い出せない。人間の顔なら一見しただけで記憶するよう訓練されているのに。
僕はブルースが好きだ。そのことを疑う余地はないけど、こんなのはおかしいよ。ブルースは男で、僕よりずっと年上で。父親や兄弟の代わりにはなっても、彼を欲しいと思うなんて、こんなこと。こんなのは。
彼が欲しい。彼に触れたい。家族やパートナーとしての心地よい距離じゃ足りない。唇を押しつけ、手を這わせて、熱を分け合って全身で感じたい。
なんてこった、こんなのって酷すぎる。
誰にも言えない。ブルースには絶対に言えない。
ブルースに嫌われたくない。
手にべっとりと吐き出されたあさましさの証を見て、僕は泣いた。
子供でいられないということが、初めて悲しいと思った。
その夜に僕がやらかしたヘマの数なんて数えたくもない。
みんなブルースのせいだ。
更に言うならバットマンのせい。
性衝動の暴走しまくっていた僕にとって、あのコスチュームは刺激的に過ぎた。隆々とした筋肉を包む黒は、ストイックなくせに際どいラインを容赦なく露わにするので、目のやり場に困ってしまう。
触れられる度に飛び上がり、声を聞く度に背筋が震えた。バットスーツを身に着けると彼の声は一段と低く押し殺したようになり、それがあの時の密やかな睦言を連想させて、僕は気が狂いそうになる。
バットマンがすぐ傍にいてくれなかったら、今日のロビンは確実に死んでいただろう。
不気味だったのは、ブルースが僕の犯すミスの数々に怒りもせず、逆に心配して理由を質したりもしなかったことだ。
ひょっとして、僕が覗いていたことに気付いてる?
……まさかね。ブルースはいつも僕の保護者だってことにちょっと堅苦しいくらいの考えを持っているから、気付いていたらあんなことしないだろう。
胸を刺す罪悪感を嘲笑うように、目を閉じれば淫らな記憶ばかりがぐるぐると頭を回る。きっと今まで無意識でいた分、自覚してしまったら押さえがきかなくなっているんだ。ろくろく眠れもしていないのに、太陽はもう高くなっている。
これじゃだめだ。ブルースに頼んで今日から3日間くらいタイタンズに行かせてもらおう。
腫れぼったい瞼をこすりつつ、僕は悄然とうなだれて朝食の席に着いた。
ちらりと盗み見てみれば、ブルースも少し疲れた顔をしている。甘やかさの削ぎ落とされた横顔は見とれるほど格好いい。
ああもう。本当に重症だ。
「ブルース、昨日は、その……ごめん」
ブルースは僕の真意を測るように無言で見返してきた。
「色々、ミスをして……」
「……ああ」
納得したような、困惑したような、奇妙な返事だ。
「デートだなんだと浮かれるのもいいが、ロビンとは切り離して考えろ。どれほど危険かは解っているだろう」
素直に頷きつつも、僕はますます落ち込んだ。アルフレッドから聞いてたんだ、デートのこと。
彼女ともう一度デートなんかする気になれるのかな。
こんなにも苦しい想いを僕は知ってしまった。
リボンもいつの間にかなくしてしまっていた。
ブルースは眉間の皺を深めて少し考え込んでいたようだったが、ふと今日初めて僕を見たとでもいうような、変に改まった顔になった。
「ディック?どうした、顔色が良くないな」
長い指が僕の額に触れ、火傷をしそうな気がして僕はびくりとした。
ブルースの目に陰がよぎる。僕は慌ててなんでもないんだと笑顔を作った。
このままじゃいけない。
どんな形にしろ、ブルースとの間に新しい関係を構築できなければ、僕は近い将来この屋敷にはいられなくなるだろう。
彼の被保護者でいる限り、ブルースは僕を守ろうとする。彼の目にいつまでも子供として映っているようじゃ、性的な対象として見てくれることは絶対にない。
ブルースの肌に触れることを許されたあの女性。波打つ金の長い髪、柔らかな曲線を描く身体、華奢な細い指……どれも僕からはかけ離れている。大人になったって、あんな風に僕がなれるわけはないけど。
学校へ向かう車の中で、僕は努めて平静を装いながらアルフレッドに尋ねた。
「昨日のお客様っていつ帰ったの?挨拶しそびれちゃったよ」
「早々にお帰りになってしまいましたよ」
アルフレッドはわざとらしく慇懃に答えた。
「大方ブルース様が大人気なく振る舞われたのでしょう。今朝は反省されていたようですな」
反省?ブルースが?
時々、アルフレッドの皮肉めいた表情の方がブルースのポーカーフェイスよりも真意を読みにくいと思う。何だろう、呆れてる?面白がってる?
なんにせよ、彼女がウェイン邸の一員になる可能性はないってことだろう。
狭量な自分が嫌になりながらも、やっぱりほっとしてしまう。
僕だってブルースが欲しいと思うなら、自分ににできることをするしかないんだ。
走り出してしまった感情をどうしたら抑えられるのか分からないけれど、ひとまずは折り合いをつける方法を探さなくちゃならない。いつか我慢が効かなくなって押し倒しでもしたら目も当てられない。そんな危険性なんか、ブルースはちっとも気づいていないんだろうなあ。
この気持ちにけりをつけるか、ブルースに認めてもらえるくらいの立場に立つか。
「アルフレッド……牛乳買っといてね」
「かしこまりました」
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