Vindicators

※FUGITIVE1巻あたりの話です。








「おまえの助けは要らないと言っただろう」
「今日はそんなつもりじゃなかった。僕は僕の仕事をしただけさ」
 巧妙に逃走ルートを確保していた犯罪者グループを追いかけていたらゴッサムシティに辿り着いたのだ。クラークは気絶している主犯格の男2人を軽々と脇に抱えた。
 ぽたり、とコンクリートを打つ濡れた音。微かな響きをスーパーマンは聞き逃さなかった。漆黒のケープも青い眼差しの前には隠し事ができない。
「怪我をしている、ブルース」
「その名を呼ぶな」
 鋭く睨みつける男の声は、どこまでも冷ややかだ。
 ブルース・ウェイン。ゴッサムの寵児と謳われた名は、今や最も有名な犯罪者の名と化している。まだ容疑が確定したわけでもないのに、テレビや週刊誌ではまるきり異常性愛者か猟奇趣味の持ち主、あるいは家庭内暴力の当事者か、といった扱われ方をされている。ひどければ、ありもしない暴力沙汰が何度もあったかのような言い方で、金の力で隠蔽してきたのだと暗示される始末だ。
 クラークは今朝見たテレビのレポートを思い出して苦々しい気分になった。目の前で両親を殺されたトラウマが彼に殺人衝動を植え付けたのだと心理学者がしたり顔で解説するような番組だった。
 彼の魂の最も深く秘めやかな部分を土足で踏みにじるような報道にクラークは憤った。できることならその場に飛んでゆき、レポーターや心理学者の肩を掴んで揺さぶってやりたいくらいだった。同じマスコミ関係者として遣る瀬無かった。
 あんなことまで言われて、どうしてブルース・ウェインは汚名を雪ごうともせずに姿を消した?
 目の前の黒衣の男は、ブルース・ウェインなど存在しないと言い放った。
 クラークは切り裂かれた上腕に思わず手を伸ばしたが、彼は指先が届く前に身を引いた。
「アルフレッドに手当てしてもらうといい。昨日電話をしたよ。君をとても心配していた」
 無言。蝙蝠の翼を模したケープは闇に翻って溶けた。
 相変わらずにべもない反応に、クラークは溜息をついた。ブルースは忠実な執事にも、協力者の子供達にも―――彼の家族に、一方的な別れを告げて出て行ったのだという。あの傷は誰の手も借りず自分で治療するつもりなのだろう。
 犯罪者たちをゴッサム市警察署に放り込み、正面玄関を出たところで上昇する。屋上に人影を認めてクラークは方向転換した。遠くからでもクラークの視力なら人物の細部までがくっきりと見える。
「ナイトウィング、その顔はどうしたんだ?」
 大声でなくても聞こえる距離まで近づいてから、クラークは開口一番に尋ねた。
「ハイ、スーパーマン」
 馴染みの青年は屋上の縁に腰掛けて、今は点灯されていないバットシグナルを眺めていた。クラークが姿を現すと意外そうな顔をしたものの、驚いたそぶりは見せなかった。
 ディックは腫れあがった片頬を押さえて顔を顰めた。
「これ?ブルースだよ」
「彼が殴ったのか?君を?」
「同じくらい殴り返してやったけどね」
 歪んだ唇をにやりと上げて強がりを言うと、早口で付け足す。
「言っておくけど、先に手を出したのは僕の方だよ」
 彼も勝手なことをまくし立てる報道に心を痛めているのだろう。クラークは解っていると言うように目で頷いてみせた。
「あの人があんまり頑固だから頭に来たんだ」
 苛々と舌打ちする様子を見れば彼の師がどんな態度を取ったのか大体想像がつく。クラークは低く唸った。
 誰よりも信頼すべき者達まで拒もうと言うのか?差し伸べられた手を振り払うような行動をされれば、親しい者ほど傷ついてしまうのに。
 事実、バットシグナルの照射灯に拳を打ち付けたディックの背中を覆っているのは、怒りよりも悲しみが勝っているように見える。
「あの人はブルース・ウェインのアイデンティティを捨てる気なんだ。どうかしてるよ。ブルースを殺人犯にしたまま、自分はバットマンであること以外のすべてを捨ててしまう気なんだ……屋敷も、ケイヴも、仲間も……家族も。僕のことも」
「ディック……」
「法律上のことだけじゃなくて、彼は間違いなく僕の家族なんだ。例え殺人犯でもそれは変わらない。僕は既に一度父さんを奪われているのに、あの人はもう一度奪って行く気なんだ!僕に与えた同じ手で!」
 感情の昂ぶりに耐えられず、青年は身体を大きく震わせた。落ち着かせようとクラークは大きな手を彼の肩に置いた。
「君達はまさか彼がやったなんて思っているわけではないだろう?」
 食いしばった歯の間から力ない声が漏れた。
「……ブルースは否定しなかった」
 なんてことだ。クラークは天を仰いだ。まったく、頑固なのも度を越している。
 本人の口から無実と聞けば皆が安心できるだろうに。分かっていても、明確に言葉にして欲しい事だってあるのだ。
「彼は今バットマンであることを最優先させようとしている。私もそれが正しいことだとは思わないよ。ブルース・ウェインが殺人犯扱いされて監獄にいる限り、バットマンの活動には邪魔な存在でしかないんだろう。ならば無実であることを証明すれば彼が帰ってくるきっかけのひとつにはなると思う」
 ディックは深みのある静かな声に耳を傾けるうちに冷静さを取り戻していった。
「ブルースが殺したんじゃないって信じているんだね」
 意外そうな響きにクラークは首を傾げた。自分にとっては当然のことだったからだ。ブルースの周辺の人々にとっても同じだと思っていたが、事情はもう少し複雑だったようだ。
「信じているというより、知っているんだ。デイリー・プラネットに情報が入って来た時には何の冗談かと思ったよ。ブルースがあの屋敷で、罪も無い女性を撃ち殺したって?」
 ブルースがウェインの屋敷を大切に思っていることを知っている。どれほど銃を嫌っているかも知っているし、たとえ凶悪な犯罪者が相手だろうと、殺人を最大のタブーとして自らに課していることも知っている。
「ありえない。太陽が西から昇るようなものだ」
 超人の肉体にも負けぬ強靭な声がきっぱりと言い切った。
 冷たさと静けさを増す夜風の中にかすれた囁きが返る。
「ありがとう、クラーク」
 思案げに俯いていた顔を上げて、ディックは決然とした表情を見せた。
「あなたがそう言ってくれるのなら、僕はもうどんな可能性も否定しない」
「どういう意味だい?」
「ブルース・ウェインには犯行が可能だった」
 反論のために開いた口をディックは手で制した。
「可能性の話だよ。僕は探偵だ。疑うことから始める。それが……僕が世界一の師匠から教わったことだから」
 クラークは呆れ半分に微笑んだ。何とも彼らしい言い草だ、信頼に足る人物でさえ疑うことから始めるとは。
 ふと、胸に小さな痛みを覚えた。
 ならばブルースは自分自身までも疑うことにしたのだろうか。
 そうして見失ってしまったのだろうか。
 暗闇の中、差し伸べる手に背を向けて、手探りで道を探す彼の姿が瞼に浮かんだ。
「きっとブルースを取り戻すよ」
 ディックはにこりとして、足音の立たない鍛えられた足取りで屋上の端へ移った。
「ああ、もちろんだ」
 街を照らす灯りの中へ投じられた背中を見送り、クラークも笑みを深めた。道の先にある温かな光がブルースには見えているだろうか?
 彼の苦しみを和らげることはできなくても、自分にもまだできることがある。
 それは待つことだ。ただ信じて待てばいい。
 答えはとても簡単なのに、納得がいくように証明してみせるのはなんとも難しい。けれどその険しい道程をひとつひとつ辿らなければ決して納得しないのが彼なのだ。
 だから……ブルース・ウェインはきっと帰ってくる。
 探索の果てに、頑なな彼もいつかは知るだろう。自分自身からは逃げられないのだと。
 この胸の痛みと共に待つことで、ブルースの苦しみの一端を背負うことができるとクラークは確信していた。また嫌な顔をされるだろうから、本人には言わないでおくけれど。
 代わりに、何度でも伝えよう。
 クラークはその言葉をそっと繰り返した。
「僕は君を知っている。君を信じているよ、ブルース」




 

06.11.12