101°F――――ディックはうんざりして体温計をサイドテーブルに放り投げた。
東海岸を中心に猛威を振るっているインフルエンザが、ブルードヘイヴンにも襲来したことを我が身で証明してしまった。病院に行くべきなのだろうが外は零下で大雪、だるくて面倒くさい。
仕方がないのでこうして大人しくベッドに沈んでいるのだが、高熱のために関節が軋んで、深い眠りに入ろうとするところをいちいち阻害する。ディックは力なく呻きながら、少しでも楽な姿勢を探して何度目かも知れぬ寝返りを打った。
日が暮れたばかりだというのに、降り続く雪のせいか街はやけに静かだ。住み慣れた部屋が妙によそよそしく感じられて、ディックは孤独を噛み締めた。
幼い頃はいつでもサーカスの仲間が周囲にたくさんいた。ウェインの広大な屋敷でも、隅々までアルフレッドの細やかな気配りが行き届いていた。屋敷を出てからもタイタンズタワーでの生活やコリーとの同棲、誰かと触れ合う場所を家にしてきた。
今のディックはこの部屋で一人きり。まるで世界に忘れ去られたように感じられた。
忌々しい頭痛を追い出したくて大きく息を吐く。こんな心細くなるのは病気のせいだ。固く目を閉じて枕に顔を埋めた。
どれくらいそうしていただろう。いつの間にか眠っていたらしく、ディックは夢の後のひどく悲しい気分で目を醒ました。
夢にはバットマンがいて、冷たい目でディックを見下ろしていた。いや、その目はディックを見てはいないようだった。蝙蝠のマスクはあるのか無いのかも判らなかった。素顔だったとしても表情を読み取ることができなかった。
二人の間にある距離は果てしなく遠く思えた。呼びかけた名は虚空に吸い込まれて消えてしまった。
置いていかれた自分はただの無力な子供だった。
振り向いて欲しかったのに。せめて声を聞きたかったのに。せめて。
ぼんやりとシーツからはみ出した指先を見つめていたところへ、不意に現実の声が降ってきた。
「目が醒めたのか」
呼吸が止まる。予想もしなかった時に聞きたくてたまらなかった声を聞いた。
痛む身体を無理やり捻って視界を確保すると、闇の色を纏った男がベッドのすぐ脇に佇んでいた。
「ブル……バットマン!ど、どうして……」
「ロビンから連絡があった。インフルエンザだと?」
そういえば昼間にティムから電話が来たような記憶がおぼろげにある。しまった、口止めをし忘れた。よりによって、ブルースはこんな情けない現状を一番知られたくない相手だった。
「発熱から何時間だ?」
「18時間くらいかな……バットマン、あんまり近づくと……うつしたら悪いから……」
「私は予防接種済みだ」
ブルースは手早く検査を済ませると、ディックに有無を言わさず薬を飲ませた。
「5日は外出せずにいることだな」
「うぅ……」
インフルエンザウィルスを撒き散らすヒーローなど笑い話にもならない。ブルードヘイヴンの守護者もしばらく休業するしかなさそうだ。
ブルースは手袋を外し、筋張った手でディックの額から首筋に触れて熱の様子を確かめた。事務的な口調とは裏腹に、大きな掌は期待していたよりも優しかった。
衣擦れの音と立ち上がる気配がしてディックは伏せた瞼を上げた。
「もう行っちゃうの?」
離れていく指先が名残惜しくて、思わず縋るような声になってしまった。
ブルースは短く問い返した。
「いて欲しいのか?」
弱気を面白がるような様子があれば、道化を演じて甘えることもできたかもしれなかった。
だがブルースの口調は案外真摯で、ディックに昔日の記憶を思い起こさせた。
幼かった頃。意見の相違はあってもダイナミック・デュオが解散する未来があるなんて考えもしなかった頃。こんな風に高熱を出して寝込んだディックを、アルフレッドとブルースが一晩中寝ずに看病してくれたこともあった。
闇夜の騎士の足手まといになることがどうしても嫌で、小さなロビンは大人ぶった口調で強がりを言ったものだった。
「やだな、ちょっと言ってみただけだよ。もう子供じゃないんだから……これから『仕事』なんだろ?気にせず行きなよ」
そうして同じ言葉を、ディックは大人になった今も繰り返している。
この人にとっては今も昔も、自分は変わらず庇護するべき子供に見えているのだろう。締め付ける胸の痛みを熱のせいにして、無理やり口の端を上げて見せた。
ふと、マスクに隠されたブルースの表情が緩められた気がした。
「その前に、まだやることがある」
意外な言葉に驚き、ディックは彼の動きを目で追った。するとバットマンの進入経路であろう窓枠の下に大きな黒いナップザックが置いてあることに気づいた。
「ここに寄ると言ったらアルフレッドに色々持たされてな」
薄めに作ったスポーツドリンクや栄養剤の他、タッパーに小分けされた料理が(残念ながらハムのゼリー寄せはバットマンのスイングのためにぐしゃぐしゃに成り果てていた)続々出てくる。朝からろくに食べることもできなかったディックにはアルフレッドの心配りが何より有難かった。
さすがに持ち運ぶために分解された小型の加湿器までが出てきたのには呆れたが。
ブルースは適当な椅子に陣取り、淀みのない手つきで加湿器を作り始めた。彼は基本的に機械いじりが好きなので、簡単な組み立てだけとはいえこういう作業中はなんとなく楽しそうに見える。器用に作業をこなしてゆく指をディックは眺めていた。
やがて心地よい沈黙は終わり、加湿器の微かな電動音が響くようになった。ブルースは入ってきたときと同じく窓をくぐって出てゆくのだろう。雪は小降りになっていた。
窓枠に手をかけながら、ブルースは何故か少し躊躇った。
束の間言葉を探し、問うのを迷っているようだった。
「ディック、何か言いたいことがあったんじゃないのか?」
「え……?」
「私の名を呼んでいただろう」
意味が掴めずぽかんとしたディックだったが、熱に浮かされて見た感傷的な夢に思い至ると、耳まで赤くなった。
「あれは……ちょっと昔の夢を見ただけでっ」
一気に頭に血が上り、興奮のために体温まで上がって視界がぐらぐらした。
「ぼ、僕他に何か言ってた!?」
長年の間に、ブルースに言いたくても言えず秘めてきた思いなら山ほどあるが、どれをとっても伝える準備ができていなかった。こんな形で片鱗でも聞かれてしまったとしたら、不覚以外の何物でもない。
「いいや」
ブルースが怪訝そうに首を傾げる。ほっとして跳ねる心臓を押さえた。
探るようにじっと見つめた後、ブルースは踵を返した。ディックは闇色の背中に慌てて呼びかけた。
「来てくれてありがとう、ブルース」
本名を呼んでからしまったと思ったけれど、ほんの少しだけ振り向いた彼の口元は微笑んでいた気がした。
ひとり残された部屋は、急に冷え冷えしてしまったように感じられた。
大きな蝙蝠の姿が消えていった窓から目を離せずにいる。否応無しに寂しさを募らせる自分自身の心をディックは責めた。
素直にここにいて欲しいと言えば良かった。
―――馬鹿なことを考えるな。他に何が言えたっていうんだ?
加湿器が溜息みたいに蒸気を吐き出している。
明日になって熱が下がれば、こんな寂しさもきっと忘れられるだろう。ディックは安息を得ようともう一度枕に顔を埋めた。
眠りに落ちる前に、夢の底に谺が返る。
ここにいて欲しいと言えば良かった。それが叶わない願いだったとしても。
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